安部悦生『ケンブリッジのカレッジ・ライフ』

晴。
音楽を聴く。■ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第二番op.100(ズーカーマン、バレンボイム参照)。まずまず。どうも曲と演奏者たちがミスマッチな気がする。もっとロマンティックに演奏して欲しいのだが。■ヘンツェ:交響曲第六番(ヘンツェ)。

安部悦生『ケンブリッジのカレッジ・ライフ』読了。イギリス経済を専門とする著者の、ケンブリッジ滞在記。観察も文章も中庸を得ていて、安心して読める。変に肩に力が入っているということもない。著者は、異文化体験を楽しむことができる人だ。落ち着いた雰囲気のケンブリッジのカレッジ・ライフが、目の前に彷彿としてくる。確かに外国というのは母国とちがうわけだが、結局向こうにいる人も人間であるに変わりない。そういう著者の言葉が聞こえてくる。著者自身の自慢などはまったくないし、文章も読みやすいので、イギリスの最高学府のひとつに興味がある方は是非どうぞ。

ケンブリッジのカレッジ・ライフ―大学町に生きる人々 (中公新書)

ケンブリッジのカレッジ・ライフ―大学町に生きる人々 (中公新書)


人民にとって、国家の管理を受け入れることが better だという考え方がある。国家の「家畜」になることこそ、安楽に暮らす道だと。となると、一方で worse を選ぶという道もあることになろう。いや、そのような空間の存在を、例えばテロリズムの温床になるとして、国家が認めない可能性もある。権力の真空地帯を、国家は認めないだろう。すべては国家のために。ここで、ある種の全体主義というものが考えられる。人々は国家に管理され、市場に投げ込まれる。価値の一元化。これはある程度、既に達成されていると云えるだろう。あとはそれが完成に向かうのみ。我々の心だけは自由なはずなのに、実際は心が最初に隷従する。オーウェルの描いたアンチ・ユートピアは、彼が予想したよりも遥かに洗練された形で、既に実現されつつあるのだ。国家と市場は、必ず対になって存在する。我々は、ある意味で市場を通して支配されていると云える。単なるアナーキズムは、これを破壊できない。幼稚なラッダイトは、国家のよく知るところであり、国家はむしろそれを利用すらする。他方で、市場原理主義者は、一見国家に反するようで、じつは消極的な国家の友である。プラグマティックな市場原理主義者(という言い方は矛盾のように聞こえるかも知れない)は、意外に無自覚な国家主義者でもあるのだ。彼らは多くがエリートだから、そう指摘されても痛くも痒くもないだろう。今では「右翼」「左翼」という言葉は実質を失いつつあるが、プラグマティックな市場原理主義者は、現代の「右翼」だと云うべきであろう。