佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』/玄侑宗久『自愛の手引書 養生事始』

晴。
音楽を聴く。■シューベルト:三つのピアノ曲D.946(ピリス)。ピリスはすごいピアニストだな。ちょっとハマりそう。■バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタBWV1034、二つのフルートと通奏低音のためのソナタBWV1039(ランパル)。

佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』読了。六世紀ごろまでの修道院の歴史を、禁欲という観点から記述する。古代ギリシアやローマにおける医学から始まり、初期キリスト教における欲望形態や禁欲、また禁欲と女性(処女)など、極めて興味深いテーマに切り込んでいくのが凄い。晩年のフーコー的なテーマと言ってもいいが、今はヨーロッパでここまで研究が進んでいるのも驚きだけれども、それをここまできちんとフォローしているのが、何度も云うが凄いのだ。素人の見立てになるが、鬱蒼とした学に畏敬の念を覚える。通常の新書のレヴェルを遥かに超えた書物だ。個人的には、第四章の「キリスト教的禁欲への道程」が最も印象的だった。最初期のエジプトの砂漠の修道士たちの生活が記述されるが、彼らが最も苦しんだのは、性欲の亢進ではなく(もちろんそれも問題ではあったのだが)、食欲だったという。飢餓状態 adiaphoria になるというのが、彼らの理想なのであった。こうなると、性欲どころの騒ぎではないのである。それは、死の危険すれすれであったのだ。
 その他にも、本書は全巻興味深い記述に満ちている。他人にはどうでもいいことだろうが、古代末期のガリアの記述では、かつて澁澤龍彦を愛読した者には、クレルモン司教シドニウス・アポリナーリスの名前はなつかしい。この頃になると、修道会も最初期のそれとは大きく変っている。アポリナーリスの詩作品が或る修道院のバシリカを詠っているそうだが、作品に触れてないのが残念だ。さても、本書は稀有の新書と云えよう。

図書館から借りてきた、玄侑宗久『自愛の手引書 養生事始』読了。玄侑師のファンとしては、何でも読む。あんまり自愛していないのだが、本書も読む。本物っつーのは、何でもいいね。皆さんわからぬだろうなあ。ふふふ。『養生訓』は、本書では狂言廻しですね。これは、もちろん本書の健康法(?)を実行してもよいだろうが、これ自体が薬のエッセイ集として読んでもいいと思う。なに? どこがいいかわからない? ダメだなあ、そんなことでは。修行が足りないとはこのことである。
 しかし、アマゾンのレヴューなどを見ても、皆本当に玄侑師のことがわかっていないなあ。まったく日本人のレヴェルも落ちたものだ。そうだな、わからんやつは玄侑師の顔写真でも見て見給え。こういうのを、僧侶の顔というのだ。まあ、それでもわからんだろうなあ。どうしましょ。
養生事始 ―自愛の手引書

養生事始 ―自愛の手引書