湯浅誠『なぜ「活動家」と名乗るのか』

晴。
音楽を聴く。■スカルラッティソナタK514, K64, K32, K141, K472, K3, K380, K431, K9(タロー)。心地よい演奏。■オネゲル:二つのヴァイオリンのためのソナチネH.29、ヴァイオリンとチェロのためのソナチネH.80、チェロのためのパドゥアーナH.181。うーん、おもしろいなあ。■モーツァルト:ヴァオリン・ソナタ第三十四番K.378、第二十五番K.301(ムター、オーキス)。

湯浅誠『なぜ「活動家」と名乗るのか』読了。湯浅氏の活躍については、ここで特に喋々しなくても既によく知られていることであろう。現代日本に「貧困」が存在するという事実を世間に知らしめるにおいて、氏ほど大きな働きをした人はいないかも知れない。本書はその中間報告のようなもので、二〇〇九年の民主党の大勝以前の文章が収められている。御存知の通り、湯浅氏は民主党政権内閣府参与の役に就き、その後民主党政権から離れていった。本書の文庫版まえがきでは、その後の氏の考え方の変化について、簡潔に述べられている。それは簡単に言うと、政治を使って世の中を変えようと思えば、わざわざ敵を作るようなやり方ではダメだとうことだ。それは市民運動に関して、國分功一郎氏の言っていたこととも一致する。それは「野党」的なやり方、従来の「左翼」的なやり方ではダメだということだ。「権力」は、うまく利用しなければならないということ。しかしこれって、ある意味では政治家と「癒着」するのだから、従来はマズいやり方と言われたものではないのか。そういう仕方が推奨されるとすれば、やはり政治家も変ってきたのだと云えるのかも知れない。
 なお、本書の中身は深刻なものだが、個人的に意外だった記述は一切なかった。(まあ、日本も腐っているなあとは改めて思ったが。)これは、湯浅氏らがやってきた啓蒙的活動が、一定の成果を収めた証拠ではあるまいか。これからの日本は、必然的にもっと経済格差の大きい国になっていくことだろう。これは、「活動家」の何とかできるレヴェルを遥かに超えているとは思う。でも、取り敢えずは身近なところから、自分自身のことから始めていく他あるまい。自分も、貧困層に入りそうだからね。パラサイト・シングルだからやっていけているだけですよ。その意味では、まだ恵まれていると思う。