レイモンド・スマリヤン『哲学ファンタジー』/岡崎武志『昭和三十年代の匂い』

晴。驟雨。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第六番K.284(ピリス新盤)。
散髪。

レイモンド・スマリヤン『哲学ファンタジー』読了。高橋昌一郎訳。本書は哲学で遊んでみせる本として面白いし、著者は相当な哲学者(論理学者)らしいが、そのような人にして東洋思想に関し、この程度の理解しかないというのは残念な話である。まあ、自分などが云うのは何なので、実力者が指摘して欲しいのだが、禅に関する理解など、お粗末極まりない。禅は神秘主義ではないし、具体的に云えば、禅は無を認識するとか、無になるだとかは、そういう風に言えないことはないが、それは飽くまでも言葉による道しるべに過ぎない。まあ、東洋人でも東洋がわからなくなっている現在、仕方のないことではあろうが。ホント、何度も云うけれど、誰か実力者が何とかしてくださいよ。凡夫には何とも仕様がない。

岡崎武志『昭和三十年代の匂い』読了。著者は自分よりほぼ十歳年長なので、著者の子供時代の風物を描いた本書の内容は、さすがに自分には馴染みがなかった。だって、まだ生まれていませんからね。もっとも、連続性がある部分もあった。例えばソノシート。これは辛うじてまだ雑誌の付録に付いていた。便所が汲み取りだったのもそうで、これは自分が小学校高学年の時に、ようやくウチも水洗にした。田舎のせいもあるが、肥溜めはまだありましたね。マンガやアニメの感覚はまったくちがう。マンガは『巨人の星』から『うる星やつら』へとかだったし、アニメは『宇宙戦艦ヤマト』から『ガンダム』へ、という感じだった。『ドラえもん』は読んだが、手塚治虫にはまったく興味がなかった。結局、著者は高度成長時代の最中で成長し、自分はそれが終ってからの世代ということだろうか。個人的なことをもう少し書いておけば、自分の子供時代は陽だまりのように、ひたすらに平穏無事な雰囲気に満ちていた。日本が経済的に豊かになり、何でも日本が一番という印象の時代だった。葛藤の生まれる余地のなかった世代だと思う。だから、我々の世代はダメなのだということもできるだろう。