晴。
山下祐介『東北発の震災論』読了。実際に被災地に入ったときのエピソードから、やたらと抽象的な議論まで含んでいて、正直言って著者の意図するところが見えにくかった。これは、自分に社会学の素養がないせいかも知れない。本書のキータームとして、「システム」(或いは「広域システム」)や「中心と周辺」と云ったものがある。「広域システム」というのは、大雑把に言えば「政府」や「自治体」であり、日本全体と云った意味も含んでいそうだ。本書では、その「システム」の「中心」(これは「政府」でもあり、「東京」でもあると云えよう)からは、「周辺」が見えなくなっている、ということが至るところで述べられている。「周辺」からは「中心」がよく見えるのに。著者は、結局「システム」が大きすぎるのだという。その代わりに、「くに」とでもいうべきものが立ち上がらねばならない、とも。これは「パトリ」への回帰ということであろうか。
また、具体的には、著者は被災者たちが本当に悩んでいることを、次のように纏めている。(p.238)
・住民同士の関係が、避難が広域化し、また利害が錯綜してしまってつながらない。
・役所とも協力したいが関係がつながらない。意思疎通さえできない。
・商売を再開しようにも住民が戻らない。住民は住民で戻りたいが、店も何もないので戻れない。人々のタイミングを合わせる必要があるが、みんなバラバラでつながることが難しい。
・マスコミは誤報ばかり。専門家も自分勝手で信用できない。正確な情報がほしい。
・故郷は再建できるのか? 自分の生活はどうなるのか?
・復興には他の選択肢はないのか? みんなおかしいといっている方向へなぜ進んでいるのか? 我々は、いつ、どんな判断をするのが正しいのか?
これらが優れて具体的なだけに、本書の抽象的な部分とどう繋がるのか、なかなかわかりづらいところがある。ただ、個人的に思ったのは、一般的に過ぎるかも知れないが、どうして日本人は、個人個人はもののわかった人ばかりなのに、「システム」に組み込まれると、こうダメになってしまうのか、ということだった。これはよく思うことで、自分にしても、いまは「システム」にあまり関係がないので免れているが、「システム」の内部に入ってしまえば、普段自分が簡単に非難する類の人間にあっさりなってしまうのではないか、という恐れが払拭できないのだ。これは、あまりに問題が大きいかも知れないが、痛感させられるのである。
それからもう一つ。今の我々は、ほぼ完全に「システム」の中に組み込まれている。例えば第二次世界大戦のあと、人々は、遥かな過去から延々と続いてきた原始的な暮らしに戻り、なんとか生き延びていくことができた。だから、「国家」などなくても、民は生きていける、ということは真実であった。しかし、今回の震災でわかったのは、人々は援助を待つしかなく、もう「システム」に頼らずに生きていくことは、ほとんど不可能になったことである。「民」は滅び、自分たちだけで生きていくことのむずかしさが浮き彫りになった。これが現代である。
※追記 今回の震災、特に原発事故に関して、一旦は「システム」の脆弱性が明らかになり、「システム」のあり方がようやく議論され始めたかと思っているうち、それはどこ吹く風で、「システム」は以前より硬直強固になりつつあるように見える。日本人は旧態依然、この震災から恰も何も学ばなかったかのようだ。こうした印象は間違っているのだろうか。
東北発の震災論―周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
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それにしても、井筒俊彦先生の文章に久しぶりに触れたが、言葉もない。先生の訳された『コーラン』も、まだ未読なのだよなあ。さっさと読まないといけないね。
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