阿部謹也『西洋中世の罪と罰』

晴。
図書館。
阿部謹也『西洋中世の罪と罰』読了。古ゲルマン社会では、死者もまた「生きて」おり、生者に様々な仕方で働きかける存在だった。生と死には、連続性があったのである。キリスト教は、かかる異教的な風習を否定するため、生と死を切断しようとした。そこでは、異教的な慣習は「悪」とされた。五〜六世紀から次第に現れてくる「贖罪規定書」は、それをはっきりとさらに推し進めた。その行き着くところ、一二一五年のラテラノ公会議で、成人は少なくとも年に一度、告解をしなければならないことが定められたのである。これは西洋の歴史の中で、きわめて大きい出来事になった。ここらあたりは、フーコーの著書に詳しいところだ。


メモ。
ヴァラフリド・ストラボ Walafrid Strabo(c.808-849)。Wikipedia。「ホルトゥルス Hortulus」(ラテン語原典と独訳、こちらも参照)。

長谷川櫂という俳人が、ネット上で吉本隆明を批判して、こんなことを書いている(参照)。
 自分は長谷川櫂などどうでもいいのだが、こういう気の毒な「自称知識人」がたくさんいるので、ちょっとつぶやいておく。長谷川は、よほど「在野の思想家」というのがお気に召さないらしい。長谷川が気に入らないのは、もちろんそこに長谷川のルサンチマンがあるからだ。そして、「吉本の考え方にあおられて、なかには人生を棒に振った人も少なからずいます」などと言って、それで吉本に対する批判になっていると思っているのが、また哀れである。マルクスが存在したために、どれだけの人間が死んだか。それは、敢て言うが、思想家の大きさを示していることに他ならない。本物の思想というのは、はなはだ危険なものなのであり、本物であるがゆえに命をかけるということも起きるのである。長谷川はそこがわかっていないし、思想に命をかけるということを馬鹿馬鹿しいとでも思っているのだろう。別にそれならそれで構わないが、「震災歌集」「震災句集」なんていう本を出して、時局に迎合・便乗しているような「自称知識人」が、吉本を批判できる気になっているというのは、愚かとしか云いようがない。「胡散臭い在野の思想家」吉本隆明は、最後までそんなことは絶対にしなかった。