野呂邦暢『草のつるぎ』

晴。
風邪だいぶよくなる。鼻水はまだたらたら。
野呂邦暢『草のつるぎ』読了。構造分析的に言ってしまえば、「草のつるぎ」と「砦の冬」を合せて、自衛隊通過儀礼とした男の物語ということになろう。お約束の「死の体験」もちゃんとある。ストーリーとしては、ほとんど完全にこの構造として説明できてしまうが、はたしてそれがいい読みかということである。この構造を超えるものがあるか。それがあるとすれば、主人公も言っている、「ぼくの中にある何かイヤなもの」であろう。「ぼくには何か良くない所がある。本能的に助手たちはそれを嗅ぎつけて目の敵にする。そうだ。ぼくもまた彼らと同じようにぼく自身を憎む。すこぶるいかさない草色の作業衣など着こんで鉄砲かつぎに身をやつしているのも、元はといえばぼくの中にある何かイヤなものを壊したいからだ。」(p.61)それは成功したか。そのようにも見える。「ぼくはかつて他人になりたいと思った。ぼく自身であることをやめ、無色透明の他人になることが望みだった。なんという錯覚だろう、ぼくは初めから何者でもなかったのだ。それが今分った。」(p.81)主人公はいわば、突き抜けたかのようにも見える。しかし、これは本当にそうなのだろうか。文学的な虚構ではないのか。というのは、全体の中で、なにかこの部分だけ、浮き上がっていて、違和感を感じないでもないからだ。ここが自分には成功していないように感じるので、作者が全体で何を書きたかったのか、わかりかねる憾みがある。構造だけが浮かび上がってくるように読めてしまう。逆に、その点が成功していると感じられれば、本書はよい作だとされても異論はない。


カーゾンの弾く、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番を聴く(参照)。指揮はセル。カーゾンというのは何となくじっくりと聴かせる、シブいピアニストのようなイメージがあったが、いや、そういうイメージはそうなのかもしれないけれども、音楽をがっちり演奏するという点において、まず大変な実力者であることがわかった。現代では、これほどの実力をもったピアニストはもういないだろう。実際このベートーヴェンを聴いていて、お前などがベートーヴェンを見切ったと思うなどというのは片腹痛いといわれているようで、冷や汗が出そうになったくらいである。ベートーヴェンが登場して、音楽の中に何が侵入してきたかをはっきりと示す演奏だ。カーゾンの演奏では、転調が起こったりすると、おもわずハッとさせられる。