日本の学者と学問について

最近つくづく思うのだが、概念を操作する思考では、大雑把に見て、日本は西洋に決して敵わないのではないか。西洋の学問と日本の学問を比べてみると、そう痛感せざるを得ないのだ。もちろん時には、日本人でも西洋人に負けない深い(この「深い」というのが特徴的である。「独創的」かどうかは、日本人はあまり問わないし、問えない)学問をする人は出てくるが、ほんの一握りだけのことだ。例えば数学や物理学を見てみると、日本人でもすごい人はいるが、西洋人の学者の、綺羅星のごとき質、量の壮観は、総体的にとても敵うものではないのである。結局、日本人は西洋に「追いつけ追い越せ」のスローガンそのままに、概念を巧みに操作し、独創性を尊ぶという、そういう方向を目指すべきなのか、それとも、「東洋」の「思考法」の伝統を受け継いでいくべきなのか。しかしそれにせよ、日本人は既に、「東洋」がわからなくなっているというのが殆どだろう。結局中途半端で、どちらでもないというところに、落ちていくような気がする。
 例えば若者の「活字離れ」。これは決して正しくなく、「活字離れ」は起きていないというデータがあり、それはそうかもしれない。しかし若者はともかく、こういうことはあまり言いたくないが、日本人の「学者」がいかに本を読んでいないかは、驚くべきではないか。これは、ある程度日本人の「学者」の本を読んでいれば、誰でもわかることである。そのことは、これもあまり言いたくはないが、文章をみれば一目瞭然である。別に「名文」でないとか、そういうことが言いたいのではない。とにかく、(特に若い頃に)読んでいないのが丸わかりなだけである。
 散文を鍛えるということ。