こともなし

雨。
よく寝た。どれだけでも寝られる。森の中を歩く夢を見た。こういう夢は好きだ。

NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ ニ長調 BWV912、嬰ヘ短調 BWV910 でチェンバロは西山まりえ(NMLCD)。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはジョン・フェイディアル、ピアノはアンドリュー・ハーレー(NML)。なかなかよかった。

 
昼から県営プール。ガソリンスタンド。

岩波文庫の鈴木正三『驢鞍橋』落手。鈴木大拙校訂。まずは大拙の解説を読んでみたが、頗るおもしろい。非常に意に満つ。わたしに読めるかどうかわからないのだが、とりあえずは楽しみだ。

人間の深いところは時代が変ってもなかなか変わるものではない。しかし日本人の表層は完全に変ってしまったし、「中層」も大きく西洋化しつつある。いずれは深層も少しづつ西洋化し、やがて東洋は消滅していくだろう。我々はもはや、かつての日本人が何を感じ、思い、考えていたかわからなくなっている。特に知識人ほどそうだ。その例証が日本仏教である。もはや日本の知識人は、日本仏教がどういうものかわからなくなり、そもそも日本の仏僧自身が、中国、日本での大乗仏教の展開をブッダからの逸脱として無価値視するようになってきたように思える。まあはっきりいえば、日本仏教は(極少数の例外を除き)既にほとんど死に絶えたと言ってよいので、それも当然であろう。東洋の消滅が悪いことなのかは知らないが、西洋的思考は人類の思考の中では特殊なものであったのに、それがすべてになろうとしているのは紛れもない現実だ。そして、世界はすべて計算可能なもので覆われつくされるようになりつつあると思われる。

わたし自身、既に日本の古典に自然に入っていける世代ではない。むずかしい時代になったものだと思う。

もはや、「東洋と西洋」という区別が意味をなさない時代になりつつある。東洋が消滅しつつあるとすれば、西洋的なターム、文脈で「東洋」を記述する方向にもっていかざるを得ない。結局、わたしのいま参照している人たちは、ほぼすべてそちらの方向へ舵を切ったように思える。

自分などはそのうち「ありもしない『東洋』を仮構する人」ということになるに決まっている。というか、もはやそうなのだろうな。


鈴木正三を読む。これは元気の出る本だ。正三はよく自分はまだまだだと言っているが、わたしなんぞはそれどころでない。思い上がりはその都度やっつけないといけない。

早寝。