司馬遼太郎の仏教観

司馬遼太郎『手掘り日本史』(isbn:4087503321)読了。聞書きを纏めたもの。著者は若い頃、宗教担当の新聞記者だったのだが、不遜なことを言うと、それにしては仏教の肝というか、ツボというかが、判っていないように思えてしまう。『空海の風景』でも似たようなことを感じた。著者の空海における仏教は、宗教ではなくて、思想になってはいまいか。(呉智英などは、司馬の空海は背広を着ている、とかなんとか言っていたと記憶するが)。例えば、本書でもこんなことを言っている。
「…しかし、はたして仏教というものが日本に定着したかどうか。欽明天皇のときに、仏教伝来と年表には記してあって、それから千数百年、これだけの仏教国にはなっていますけれど、日本人のなかに仏教が定着したと言えるかどうか、非常に疑問ですね。」(p.140-1)
葬式仏教のことなどを言っているのかも知れないけれども、そんなところを見ても仕方がないのであって、例えば親鸞などは世界のどこに出しても恥ずかしくない宗教家だと思うが、司馬が親鸞について、何か心に残ることを言ったという記憶がない。また、二位局が「天皇家の本質は大神主だ」というのを、「非常にすぐれた歴史感覚」(p.154)だと褒めているが、これは当方が無知なのか、天皇神道の体現者であったのなど、仏教伝来以前か、それこそ明治以後なのであって、日本史の大部分では、遥かに仏教に傾斜していると思う。
 確かに司馬さんは大した人だと思うし、『街道を行く』のシリーズは、かつて自分も愛読したことがあったくらいだが、この人が国民的な作家で、財界のトップあたりがこぞって、愛読する作家として挙げている様子などを見ると、果してこれでよいのかと、思わないでもない。まあそれは、司馬さんの罪ではないが。