魔夜峰央『翔んで埼玉』

曇。

よくも悪くもたくさんのふつうの人がふつうにネットをやるようになって、日本のネットがふつうの「世間」化してきたような印象がある。わたしのような人間は、住みにくくなってきた感じだ。「ブログ」というサービスは昔に比べれば辺境化したが、ブログの運営会社もただ手をこまねいて見ているだけではないので、例えばはてなダイアリーはてなブログに変わって使用感が変化したことは、シロクマ先生その他が(少しうるさいくらい)指摘している。わたしははてなブログでも別によいのだが、このところ何でここで日記を書いているのか、よくわからなくなりつつあるようだ。ただ、これを止めたら本当に現世と繋がりが切れてしまうような気もする。

わたしが現実に住んでいるところは、田舎でも郊外というべきで、人口も増えつつあるくらいだが、わたしの住んでいる精神的な世界は限界集落みたいな感じがある。限界集落の一軒家で、ひとり暮らしているおっさん。もう、近くのコミュニティへの細い道も、草に埋もれがちだ。しかし、このあたりの土地も誰かがメンテナンスしなければならないとは、思っているのだが。まあ、若い頃から同じことをやっているのだが、やはりムダだったのかなという思いもある。依然として豊かな森ではあるのだが。

イオンモール各務原未来屋書店にてマンガを探すも、なし。本日のショパンは、ピアノ協奏曲第一番の中間楽章だった。
ミスタードーナツ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー。立花隆の武満本に没頭する。


魔夜峰央『翔んで埼玉』(Kindle版)読了。あー可笑しかった。わたしの好きな俳優であるモックン(本木雅弘さん)が埼玉県出身らしくて、NHK岐阜のインタビューに「岐阜の人の気持ちがわかる」と仰っていたが、いや、他県の人は何を言っているかわからないでしょうね。わたしが訪れたところでは、徳島も結構キテいたが、まあ徳島県には阿波踊りがあるか。ちなみに、このマンガでは茨城県がとばっちりを食らっている(笑)。しかし、「埼玉県民にはそこらへんの草でも食わせておけ!」つーのは(爆笑)。実写映画化もされているらしいです。

翔んで埼玉

翔んで埼玉

 
綿矢りさ『意識のリボン』を読み始める。短篇集。登場する女性たちが、みな自意識が強いような感じがする。こういうのはひさしぶりなので戸惑ったが、何か小説のリアリティを増しているようにも思えて、おもしろくないこともない。たぶん、綿矢りさの小説は女性が読んだ方がおもしろいのではないかという気がする。(若い)女性として、小説に登場する彼女たちがリアルなのか、それとも作り物なのかは、若くもない男のわたしにはわからないところだ。というか、結局わたしは女性の気持ちがよくわかる人間ではない。

中沢さんとコロナ

日曜日。雨。

スーパー。
ごろごろ。


カルコス。「すばる」誌で中沢さんがコロナについてエッセイを書いているのを立ち読みしてきた。中沢さんらしい、意表を突かれる語り口のエッセイで、おもしろかった。中身は大きくは二つに分けられ、ひとつはコロナ禍による世界的な資本の回転の停止について、もうひとつは適切な距離というものについてで、それ自体は別に驚くことはないけれども、前者では資本の増殖様式とウィルスの増殖様式のちがいを指摘し、後者ではネイティブ・アメリカンの部族同士の距離のとり方が話題になっていて、それがいかにも中沢さんらしいというのである。前者でグレタ・トゥーンベリさんの怒りに触れてあったのもおもしろかった。確かに、この資本の回転の停止は、グレタさんの怒りを何者かが聞き届けたかのような印象を与えないでもない。中沢さんは、グレタさんが怒る「おとぎ話」、つまり幻想としての資本自身の増殖について、簡潔に分析してみせている。このコロナ禍が長期化を余儀なくされれば、その幻想が否応なく変質させられることもあり得るかも知れない。
 「適切な距離」については、特に日本人のそれというものは中沢さんは話題にしていなかった。日本のパンデミック対策が非合理的なものであったにもかかわらず、何故かパンデミックが日本で拡大しなかったことについて、海外のマスコミなどでは日本人の対人距離感覚(感覚としての対人距離)の遠さがその原因に挙げられることがあるが、まあそれは推測にすぎない。実際に、日本人の対人距離感覚が、他国人に比べて遠いということがあり得るのだろうか。わたしは外国のことはまったくわからないので、何ともいえない。わたし個人は、あまり他人と接触したくないタイプであるが、それが一般化できるのかもわからない。
 立ち読みして満足したが、ふと雑誌棚を見たら、コロナなんだから立ち読みするなとあってすいませんだった。

わたしは田舎で引き籠もっている人間なので、このパンデミックで影響を受けたとか、認識を改めたとか、そういうことは特にないように思う。わたしがコロナと接していたのは、もっぱらテレビとインターネットを通してだったにすぎない。そこでの大混乱には確かに強い印象を受けたが、特にいまでも強く印象に残っているのは、人間的にはわたしはキライだが、少なくとも合理的だと見做していたある種の日本の「知識人」たちが、パンデミック対策に関してはまったく非合理的な認識で一致していたことだった。現実には日本のパンデミック対策は、非合理的なものであるにもかかわらず悪い結果をもたらさなかったので、彼らの非合理性はこれからも温存されることがわかった。これは、個人的には結構意外な出来事だった。わたしは、わたしのキライな「合理的知識人たち」は、少なくとも合理性に関してはもっと信頼できると思っていたのだが。このあたりのところは、それこそ合理的な知日派外国人知識人(そんな人がいるのか知らないが)に訊いてみたい気もする。

『最後の親鸞』を再読し始める

強い雨

午前中は甥っ子の勉強を見る。車で迎えに行くとき、前が見えないくらい雨が降っていた。

妹一家合流。昼食は珈琲工房ひぐち北一色店にて。老母が外食したのはほんとひさしぶり。
昼からは、老父が下の甥っ子の勉強を見る。んで、皆んなでお茶にして、妹一家帰る。また雨強し。

ドブへ捨てられたおっさんたち。わたしのいうのは、我々のようなキモいクズのことではない。そうではなく、昭和の日本の発展を支えてきた、司馬遼太郎を読み、いわゆる社畜で、小さな家に住み、家庭をあまりかえり見ず、論理化の苦手なダサいおっさんたちのことである。斎藤美奈子が散々バカにしてきたおっさんたちといってもいいだろう。ああいうおっさんたちは、いまやまとめてドブへ捨てられたが、わたしは何となく彼ら(ここに「彼女ら」は入るのか知ら)のことを思う。もちろん、いまでも彼らの末裔はたくさん残っているが、わたしはそれには興味はあまりない。わたしは何も知らないので、具体的な人名を挙げられない。仮にかつてのソニーとかホンダとか言ってもいいが、そのトップのえらい人たちではない。歴史には残らない人たちだ。昭和のふつうのおっさんたち。彼らは本当にクズだったのだろうか?

団塊の世代以前の、おっさんたちといってもよいだろうか。いや、そこで区切ってよいのかわからないが。

吉本さんの『最後の親鸞』を再読し始めた。冒頭の文章が書名の「最後の親鸞」と同じ題をもっているのだが、…僕は前から何で「最後の」なのだろうと思っていたのだな。今回読んで、なるほど、そういうことだったのかとわかった。そして、以前読んだのはいつだったのかまったく記憶にないが、まるでわかっていなかったのだということがわかった。まあそれはどうでもよくて、この冒頭の文章は、吉本さんのそれの中でも、特別な高さというか、深さというか、何でもよいが、とにかく、遠くまで進んだものだった。そして、吉本さんが例えば禅について何も語らないのが何故か、わかったような気がした。ここまでいくと、一切の宗教は解体し尽されてしまう。吉本さんが親鸞に見たのは、そこまで進んだ「宗教者」の姿だった。しかし、吉本さんが「最後の親鸞」に見たのは、ただの老耄し果てた痴愚ではなく、やはり絶対他力というまずは不可能な道を突き詰めた先の異形だったのだと思う。とわたしは希望的観測で言いたいのだが、親鸞はそれを望まなかったのかも知れないところが恐ろしい。しかし、俗な話だが、わたしの家は浄土真宗の檀家だけれども、その「浄土真宗」というものは、いったい「最後の親鸞」と何の関係があるのかと考えると、いたたまれないような感じがしてくるのはどうしようもない。

しかし、紙一重のところは、自分にははっきりしないのも確かだ。いまのわたしには、白刃の上を歩き続けることは無理だ。どちらかにどうしても倒れてしまう。

つまり、…はからいを捨てる。いまでもよくある道は、バカとしてふるまうということだ。stay foolish、親鸞も「愚禿」とみずからを呼ぶ。しかし、バカとしてふるまっているだけなら、それもやはり「はからい」にすぎない。絶対他力のようで、どこかに自力が入ってしまう。ならば、完全なバカになればよい。単にバカである。そこには「はからい」はないかも知れない。しかし、単にバカであるとして、それがいったい何か? もはやそれに、何か意味があるのか? そこである、問題は。自力修行の禅でも、まったく同じ問題がある(「禅僧くさい」禅僧の問題)。それは措くが、また親鸞に戻って、例えば彼は「悪人こそ救われる」といった。では、悪いことをし放題にすればよいのか。もちろん親鸞はそれを否定している。かかる無限の問題系を突き詰めていった先に、「最後の親鸞」がある。これは「最後」といっても、例えば何か「澄み切った境地」のような最終到着地点のようなものではあり得ない。そこで、親鸞がくたばったというだけだ。…といくら書いてもダメだな。さて、吉本さんはそこで何を書いておられるのか。

こう考えてくると、やはり自力門は他力門よりもよく整備された道であるといわざるを得ない。しかし多くの人が歩くだけに、陥穽もまた多い。他力門はむずかしすぎて、まず歩き通せない。とか未熟者が言ってるよ。

しかし、吉本さんを宗教に引き付けすぎて考えてはいけない。宗教でよければ、吉本さんが『最後の親鸞』を書く必要はまったくなかった。思想の極北。同時に宗教の解体。それは、宗教が無意味ということでもない。だって親鸞なのだから。

萱野稔人『リベラリズムの終わり』 / 加藤典洋&高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』

雨。

昼過ぎ、県図書館。強い雨。入り口ではサーモグラフィー検査もあって物々しく、そのせいなのか利用者はほとんどおらずガランとしていた。時々、あんまり長居をするなというアナウンスが流れる。萱野稔人の新刊、吉本隆明加藤典洋あたりを借りる。


図書館から借りてきた、萱野稔人リベラリズムの終わり』読了。最近評判の悪い、リベラルのお話。あるいは「リベラル」と「リベラリズム」はきちんと区別せねばならないのかも知れないが、いずれにせよ大したちがいはない(?)。わたしは家伝のリベラルであるが、本書はたいへんにおもしろかった。わたしもこのところリベラルは苦しいなと思っていたが、本書には納得感がありましたね。もっとも書名にもかかわらず、著者はリベラルあるいはリベラリズムがダメというのではなくて、その最良の部分である「フェアネス」は活用せなければならないという立場だそうであるが、まあね、どっちでも(略)。
 リベラリズムは本来は政治思想で、それが他人の自由を侵害しない以上は、個人の自由が重視されるべきであるというそれとここではテキトーに説明しておくが、どうしてこれが現在苦しいのか。著者の見方だと、それは社会の「右傾化」によるものであるが、じゃあどうして社会は「右傾化」しているのか。それは、人間がバカになったからではなくて、富の再分配に関係があると著者はいう。つまり、リベラルは「富は再分配されなくてはないらない」と主張するが、いまは再分配されるべき「パイ」が世界的に縮小してしまったため、それが無理になってしまった。だから、国民は必然的に右傾化して、リベラルはダメなんですねという論法である。特に日本は少子高齢化が急激で、パイは小さくなる一方だというのだ。まあ、この論法自体は粗雑というか、強引さもあると思う。まあここで説明のため議論を簡略化しているし、そもそもわたしのリテラシーがない可能性もあるが、わたしはそんな風に読んだ。例えば、パイが小さくなるのは必然かという反論が直ちに挙げられるだろう。また、国民の右傾化はパイの縮小だけのせいなのか、それははっきりしているのかという疑問もある。インターネットに関係があるのではないか、とか。
 さても、わたしがおもしろいと思ったのは、政治思想である「リベラリズム」が、いまはパイの大きさという、経済学的議論を無視できなくなったという事実である。その点で、現代リベラリズムの本丸であるロールズの自由論の議論になるのだが、著者の議論だと、ロールズは理論に必然的に経済学的観点を導入せざるを得なくなっているというのだ。ここらあたりは、大変に勉強になりました。ロールズは猖獗する「功利主義」に対抗して「自由論」を書いたのだが、わたしの素人的印象では、現在において「功利主義」を捨てることは不可能であり、ロールズも経済学的議論を導入した以上、「功利主義」を反駁しきれていないような感じである。わたしはそのあたりのチャンバラにはあまり興味がなくて、かしこい学者たちが切り合っておればよいと思っているが、いずれにせよそのあたりの議論が我々の生活に直結してくることが免れないのだ。これが、現在が厄介な時代ということである。いまや、リベラリズムの退潮どころか、「監視社会」の到来すら不可避であるといわれており、いや、我々はどこへ連れていかれるんでしょうね状態であることは誰の目にも明らかになり始めている。
 なお、ロールズというと「無知のヴェール」があまりにも有名であるが、これは多数の批判に晒されて、ロールズは晩年ほとんどそれを主張しなくなったというのは、へーという感じがした。何にせよ、いまは「経済学の時代」であることを、何かと痛感させられるのであり、本書がおもしろいのもまさにそこだという読後感である。

あと著者の議論でちょっとおもしろかったのが、リベラルは「富の再分配」を主張する以上、国家が国民から税金を徴収することが当然不可避であるにもかかわらず、リベラルは税金の徴収がキライという欺瞞をもっているというもの。まさに日本共産党とかそれで、ある口の悪い学者が彼らの「憎税」といってバカにしていたのを思い出した。ただ、税金の徴収のあり方はいろいろあるのも確かで、どういう税制がよいのかというのは、またしても経済学である。わたしにはそのへんは面倒で、ツイッターとかで素人玄人入り乱れてお互いにバカ、クズ呼ばわりしているのを見るのは、正直うんざりしている。


図書館から借りてきた、加藤典洋高橋源一郎吉本隆明がぼくたちに遺したもの』再読了。

吉本隆明がぼくたちに遺したもの

吉本隆明がぼくたちに遺したもの

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの「音楽の捧げもの」 BWV1079 ~ Trio: Largo - Allegro - Andante - Allegro (NMLCD)。■武満徹の「夢の時」で、指揮は山田和樹、日本フィルハーモニー交響楽団NMLCD)。いいな。武満以外も聴いてみたい指揮者だ。■ナタン・ミルシテイン(1904-1992)の「パガニーニアーナ」で、ヴァイオリンは周防亮介(NML)。

Souvenir~周防亮介デビュー!

Souvenir~周防亮介デビュー!

 
■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001 で、ヴァイオリンは土田越子(NML)。よいな。芥川也寸志(1925-1989)の交響曲第一番で、指揮は鈴木秀美、オーケストラ・ニッポニカ(NML)。これは我々が捨ててきたものであるが、おもしろいのだよね。若い人たちはこれをどう聴くのだろう。それから、鈴木秀美チェリストだと思うのだが、指揮もするのかな。 
雨。
芥川也寸志の「交響三章」で、指揮は鈴木秀美、オーケストラ・ニッポニカ(NML)。芥川つまらないなあと思って聴いていくと、じわじわおもしろくなってきて、どこがつまらないのだとなる。ほんとに我々が捨ててきたもの。■シューベルトアルペジオーネ・ソナタ D821 で、ヴィオラはオレフ・クルイサ、ピアノはバリー・スナイダー(NML)。よかった。この曲はふつうはチェロによって弾かれるが、ここではヴィオラによる演奏である。現代においてシューベルトほど演奏するのにむずかしい音楽はないが(もちろん技術的にという意味ではない)、ここでは聴けるだけの深さをもった演奏になっていて、それだけで稀である。現代においてシューベルトがむずかしいのは、たぶんシューベルトがもっとも死に近い音楽だからであろう。NML でもシューベルトの録音は非常に多いが、個人的には聴くのはむずかしい。シューマンのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.105 で、ヴァイオリンはオレフ・クルイサ、ピアノはバリー・スナイダー(NML)。うーん、終楽章が惜しかった。これではあまりにも安全運転で、全然 Lebhaft (いきいきと)ではない。全体的にももっとファンタジックだったらと思ってしまう。けれども、それ以外はなかなかよい。シューマンの二曲のヴァイオリン・ソナタは、もっぱら第二番がよく演奏されて一番はあまり聴けないので、この曲をやってくれてありがとうという感じである。わたしは第一番の方がずっと好きだ。クレーメルアルゲリッチの録音が忘れられない。この演奏でも、胸が苦しくなるくらいロマンティックな聴かせどころが随所にある。それにしても、アルペジオーネ・ソナタシューマンの一番とは、それだけでオッと思わされた。ブラームスのヴァイオリン・ソナタなんかも、期待したいのだが。
 

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー408円。ひさしぶりのイオンモール各務原。コロナ意識が完全にたるんでいますね。たぶん、ここのイオンモール岐阜県でいちばん人出の多い場所だと思う。さすがにフードコートは以前ほど人がいなかった。ミスドは持ち帰りの客で結構賑わっていました。
 立花隆の武満本の続き。第二部はスタイルがちがって、武満の生涯を時系列で追うのではなく、関連する話題をまとめてインタビューそのものに語らせる形式になっている。これはこれでおもしろい。武満さんのブラームス、ロマン派発見とか、特に興味深かった。ブラームスは極めて保守的だと見做されることの多い作曲家だが、シェーンベルクにも「進歩主義ブラームス」という論文があるくらいで、なかなか簡単ではない。ま、わたしなんかは極めて素朴に聴いているだけだが、いまの作曲家でも調性を使ってエモーショナルに書くとブラームスにならないように書くのはむずかしいといわれるくらいらしい。グレン・グールドも、作曲するとブラームスになっちゃうと書いていた筈。武満さんはブラームスはどうなのだろうとわたしは個人的に思っていたので、やはり武満さんは奥が深いなとあらためて思った。
 武満さんはロックやジャズ、歌謡曲にもすごく詳しかったそうで、実際ロックやジャズ関係の友達も多かったらしい。個人的な場所では武満さん自身がピアノを弾いてジャズを歌ったりしたそうで、またそれが素朴ながらじつによかったそうである。武満さんは若い頃、ジャズ・ピアノのアルバイトをやっていたしね。

加藤聖文『満鉄全史』 / 東浩紀『新対話篇』

曇。
慧眼の方はおわかりかも知れないが、ずっと精神的に調子が悪い。そのせいか、腰も不調でよくない感じ。まあ、何とかぼちぼちやっていく。

起きて『満鉄全史』を読む。

郵便局。スーパー。


加藤聖文『満鉄全史』読了。著者はわたしよりも少しだけ年配の方であり、ほぼ同世代といってよい。当然、戦争とは直接の関係をもたず、それどころか歴史の陽だまり、あるいはぬるま湯のような80年代を育った方の筈であるが、本書は「国策」という観点から、強い同時代(的危機)意識をもって敢て満鉄を研究したとあとがきにあってなるほどと思った。読んでいて、とても「強い」文体で書かれていると感じたからである。登場人物の歴史的評価ということに関しても積極的であり、わたしにはその当否は判断できないもののずばりと単刀直入な評価がなされていると感じられた。正直、著者はかなりの自信家なのかとも感じたくらいである。あとがきにおいても、現代の日本人に対して強く批判的であるといってよい。と、本書の内容とは関係ないことを書いたが、わたしにはそれが印象的であった。『満鉄全史』というのもかなり自信を感じさせるタイトルであるが、本書は満鉄の始めから終わりまでを、それこそ「国策」を中心に簡潔にまとめた本であると思う。もとより、無知なわたしには中身の判断はできないが、興味深く読んだ。わたしも「特急あじあ」や「満鉄調査部」の素人(通俗)イメージくらいはもっていたが、本書の内容はほぼ未知であったというべきである。しかし、現在の一般人であれば、よほど特殊な方以外は、わたしと似たような体たらくではないか。本書は満鉄の歴史であるが、ということは日本の近代史、特にその混乱と矛盾が題材といってよい。本書を読むと、日本の満州政策が、まったくの無統一と場当たり的対応に終始していたことが歴然とわかるようになっている。引いては、そのことの現代における我々の無知が、まさに現代における日本人の中国(人)観の底の浅さに繋がっているといわれれば、我々は反論の余地があるまい。いずれにせよ、現代における日本人の底の浅さをぼんやりと考えているわたしにとっても、得るところの少なくない書物であった。そして、わたしの無知もまた明らかになったというべきであろう。

 
雨。入梅
珈琲工房ひぐち北一色店。立花隆武満徹・音楽創造への旅』の続き。第一部読了。ここで武満さんが亡くなり、連載のひと区切りになった。第42章まで読んだことになる。本書を読んでいつも書くことであるが、本書は我々、というかわたしの(精神的)貧しさを浮き彫りにする。もちろんわたしの才能のなさは当然のことで特に問題とするに足りないが、それ以外に、何も埋めることのできない貧しさがある。それはいったい何なのか。どうしようもないものなのか。それは残念ながらわたしだけの問題ではないから、ひょっとしたら、誰かの役に立つこともあるかも知れないと思って探求している。ま、基本的には誰の役にも立たない、無意味なことなのだろうけれど。

しかし、わたしは武満さんの音楽をそれほど聴いていないのに、なぜ聴くといつも強烈に惹かれ、とてつもない深さを感じるのか。何かコスミックなもの。武満さんについてウソ、でたらめ、見当ちがいを書いている人を見ると、嘆息したくなるが、これは傲慢というものであろう。わたしは武満さんの発言にもとても惹かれるので、本書はじつにすばらしい。立花隆氏の最高傑作ではないかと思っている。武満さんの書いたものはあんまり読んでいないので(文庫化されているものは読んだ)、ぼちぼちと読んでみたいと思う。

NML で音楽を聴く。■バッハの「音楽の捧げもの」 BWV1079 ~ Fuga canonica in Epidiapente, Ricercar a 6, Canon a 2 Quaerendo Invenietis, Canon a 4, Canon perpetuus (NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第六番 op.10-2 で、ピアノはメロディ・チャオ(NMLCD)。■武満徹の「オリオンとプレアデス」で、指揮は山田和樹、日本フィルハーモニー交響楽団NML)。

武満徹:管弦楽曲集

武満徹:管弦楽曲集

 
東浩紀『新対話篇』読了。対談集。
新対話篇 (ゲンロン叢書)

新対話篇 (ゲンロン叢書)

  • 作者:東 浩紀
  • 発売日: 2020/05/01
  • メディア: 単行本

こともなし

曇。
延々と長時間眠る。インターネットの時代とは思えない、古くさい昭和的な夢を見る。エロティックな夢と、エンジニアリングな夢。心の奥の方に、何が潜んでいるのかわからないなと思う。起きてしばらく令和の時代に戻ってこれなかった。

脳みそ腐りすぎてぼーっとしていたら家事を忘れていて老母に文句をいわれた(笑)。


昼から樋の掃除。
と、部屋掃除で二時間くらいかかった。ちと疲れました。

老母と四方山話をしていて、ウチも確かにたいへんだけれど、周りの人たちが皆な人生たいへんすぎて悲しくなった。心を病んでいる人、引き籠もっている人、結婚できない人、夫婦関係が破綻している人、一家離散の人、奥さんに逃げられた人、病気で片足切断の人、老いてひとりぼっちの人、ボケた人、その他もろもろ、まったく皆んなたいへんすぎる。まだウチの妹のところは比較的平穏で、ありがたやありがたや、なまんだぶなまんだぶ(南無阿弥陀仏)という感じ。

人生苦しむために生きているな。