黒川信重『ラマヌジャン探検』

日曜日。曇。
脳みそがリセットされてバカになったな。
 

モーツァルトのピアノ協奏曲第五番 K.175 で、ピアノはマルコム・フレイジャー、指揮はマルク・アンドレーエ。フレイジャーというピアニストはよく知らないが、早世されたのだな。
 

ベートーヴェン交響曲第四番 op.60 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ
 

マーラー交響曲第一番で、指揮はクラウディオ・アバドマーラーのおもしろさとアバドの凄さを堪能した。アバドマーラーYou Tube にまだ他にも色いろ上っているみたいなので、出来れば聴きたい。それにしても、マーラーは簡単に聴けないので大変だ。どうしてこんなに長いの、って言っても仕方がないが、自分は 60分集中して聴くというのは殆ど限界にも感じる。マーラーの極めて複雑な音楽が頭にパンパンに詰まってしんどい。しかしアバドは(繰り返すが)凄いなあ。たいていの指揮者はマーラーは相当に(無理するくらいに)頑張らないといけないわけだが、アバドは自然体というか、構えることなしにマーラーの複雑な音楽を次々に音にしていく。この動画など、たぶん病気で既に痩せてしまっているが、終っても表情にはまだ余裕が感じられるくらいだ。巨大な射程をもった指揮者だったな。

昼過ぎから雨。

キム・カシュカシャン+ロバート・レヴィンの「アストゥリアーナ」を聴く。
SHADE さんに教えてもらったディスクで、スペインとアルゼンチンの作曲家の、歌曲をヴィオラで演奏した作品集である。取り上げられた作曲家は、ファリャ、グラナドス、グァスタビーノ、ヒナステラ、モンサルバーチェ、プチャルド。クラシックとポピュラー音楽を特に区別する必要はないかもしれないが、まあポピュラー音楽っぽい仕上がりになっているといえようか。特にこちたき感想はなくていいと思う。本当なら、夕食後にバーボンか黒糖焼酎でもロックで呑みながら聴いたりするのがいいかも知れない。大人っぽい、すてきなアルバムだ。一言書いておけば、優れた演奏者の弾くヴィオラは、弦楽器の中でいちばんあまやかな音を出すものなのである。なかなかよろしいものでした。

アストゥリアーナ ソングス・フロム・スペイン&アルゼンチーナ

アストゥリアーナ ソングス・フロム・スペイン&アルゼンチーナ

図書館から借りてきた、黒川信重ラマヌジャン探検』にざっと目を通す。一部を除いてさっぱりわからなかったが、別にわからなくてもいいのだ。著者の強調するところに拠れば、フェルマー予想の解決にラマヌジャン予想の解決が重要な役割を果たしたということである。そしてラマヌジャン予想は、リーマン予想に関連した幾つかの予想のひとつでもあるらしい。ラマヌジャンの数学は決して孤立したものではなく、現代数学の重要部分と大いに関係があるということ。へーという感じ。

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

晴。
よく寝た。昨晩寝る前に読んでいたのは南方熊楠。熊楠先生はいつも僕の遥か先を歩いておられるわけだが、1cm ずつくらいでもその距離が縮まっただろうかと思う。
 
シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ。何だか知らないがこの動画は埋め込みができないそうである。さて、わたくしはこの曲に取り憑かれているのだが、まさかポリーニの 70年代のライブ音源があるとは。これは聴かずにはおれない。ということであるが、結論的にいうと、やはりポリーニがスタジオ録音を残していないのは納得できる気がした。この曲は第一楽章に尽きるのであるが、その第一楽章のエートスを完璧には表現しきれていないと思う。あとほんのわずか、じつに惜しいというところ。ここはリヒテルに一籌を輸するであろう。しかし、その他の楽章は完璧。シューベルト特有のぶよぶよ肥え太ったところがまるでなく、引き締まって明晰な演奏が繰り広げられている。
 しかし思うのだが、計見一雄先生の仰るように本当にタナトスはないのだろうか。タナトスはなくてアグレッションだけがあると。事実としてはそうなのかも知れないけれど、何かシューベルトには当て嵌まらないようにも思われるのだが。シューベルトのある種の音楽は、感覚的にはとても「死」に近い気がする。そんな気がするだけ? まだまだ「死」がよくわかってない?


モーツァルト交響曲第二十九番 K.201 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー。出だしが印象的な曲だよね。ガーディナーの音楽作りは新鮮。モーツァルトくらいだとこれみたいに古楽器オーケストラの方が合っているかも。作曲当時モーツァルトは 18歳くらいかな。曲そのものがフレッシュでぴちぴちしているよね。

昼から仕事。

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』読了。人生観が変わるほど楽しい本だった。もう笑い転げて死にそう。題も表紙カバーも何かふざけているのでどういう本?と思われるかも知れないが、若きバッタ研究者の奮闘記である。著者の研究対象はサバクトビバッタで、一定の条件で爆発的に発生し、進路のすべてを食い尽くす。いわゆる「蝗害」を引き起こすバッタである。昆虫学者になるのを夢見た著者が、ポストドクになって、というのはつまり自力で研究者として就職先を探さねばならなくなり、モーリタニアでバッタの大発生を研究し防ごうということに人生を賭けるのだ。本書はその顛末記であり、猛烈におもしろい。読んでいるとまさしく飛んでもない逆境つづきなのであるが、まああとは読めばわかるので書かない。それにしても本書での著者は RPG の「勇者」のように、次々に襲ってくる試練(というしかない)を乗り越えて、どんどん経験値を上げていく。ストーリーも楽しいというか感動的というか、でも思うが、これは偶然じゃないよね。著者のポジティブさがそれを招くのだ。で、たぶん少なくない人がそうなのではないかと思うが、本書の某大学における面接の場面で、僕は思わず泣けましたよ。しかし面接官も、偉い人だな。こんな学者もいるのだなあと思うが、著者もそこでは泣きそうになっていた。人生は不思議だ。
 本書は終っても、まだ研究者としての著者は安定身分ではない。レヴェルアップしても、まだまだ冒険は続く筈だ。著者の奮闘が幸運をもたらしますよう祈りたい気分です。若い人って、こうじゃなくちゃな!

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

こともなし

曇。

昨日見つけておいた与えられた迷路の最短経路を求める問題を解く。何の準備もなくいきなりコーディングしたわりには上手くいった、とこれは自画自賛ですね。RubyOOPオブジェクト指向プログラミング)がじつに手軽に可能で楽しい。
 
「エイト・クイーン問題」も解いてやった。これは

チェスの盤上に、8個のクイーンを配置する。このとき、どの駒も他の駒に取られるような位置においてはいけない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3

というもの。暇人なり。

こともなし

晴。
起きるとセミがミンミン鳴いている。いや、ミンミンじゃなくてジージーとかシャーシャーとかかな。


シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。1979年東京でのライブ録音。You Tube にはリヒテルの同年のロンドンにおけるライブ録音も上がっていて(参照)、基本的にちがいはない。東京版の方がちょっとさみしい感じになっているだろうか。前にも書いたけれど、この曲は第一楽章の第二主題に尽きている。そのためにこの曲を聴くのだ。


ブラームスクラリネット五重奏曲 op.115 で、クラリネットカール・ライスター。これは何ともすばらしい演奏。演奏が終ったあと、ライスターはちょっと感極まっていたのではないか。日本の聴衆もすばらしいね。こんなに曲の余韻を大切にした演奏会はめったにないだろう。しかしこの曲、モーツァルトの同編成の曲にくらべてそんなに落ちるだろうか。僕は密かに、こちらの方を愛して已まないのだが。僕の畏敬する吉田秀和さんは「かわいそうなブラームス!」と書いたのだけれど。


リゲティヴィオラソナタ(1991-94)。こういう曲を聴くとやはりリゲティは聴かざるを得ない。リゲティは中身がいっぱい詰っている。モダニズムなのだけれど、薄っぺらでないのだ。

昼から図書館。

市民公園を歩いていたら、飛行場から離陸した F-4 が高角度で上昇していった。F-4 は実戦部隊としては既に退役している筈だが、各務原の基地(航空自衛隊岐阜基地)は飛行開発実験団ということで、いまだに使われているらしい。こういうのは少年の頃の知識で、少年というのはどうして武器や兵器が好きなのだろうかと思う。ちょっと調べてみると現在航空自衛隊で現役で使われている戦闘機は F-15J で、いまだに僕が子供の頃とかわらない。報道ではステルス性能に優れた F-35A が配備されることになっているようだが、実際にはまだ運用されていないようだ。岐阜基地には高射群があり、パトリオットPAC-3 が実戦配備されている。
 各務原飛行場は現在も使われているものとしては日本でもっとも古い飛行場で、零戦の初飛行は確かここだった筈だ。そのため、太平洋戦争時に各務原は三度の空襲を受けている。いまも飛行場が市の中央を広く占めており、市の南北が分断されているのは沖縄とよく似ている。敗戦後はアメリカ軍が駐屯し、母の話だと「パンパン」と呼ばれる米兵相手の売春婦たちがいたそうだ。
 岐阜基地が存在するため、国庫からの補助金が市に落ちるので、各務原市の財政は余裕があるといわれる。市内の学校は轟音対策として二重窓になっており、早くから冷暖房の設備が導入されていた。
 先ほどもウチの上空あたりを戦闘機が北上していった。日本海上に実験などをおこなう空域が存在するので、そういうことになっているのである。

頑張って自力でマージソートを実装してみました。

井筒俊彦『意識と本質』を読み返す

晴。暑い。

午前中はごろごろしていた。

らーめん「Nageyari」にて昼食。つけ麺中盛850円。おいしゅうございました。まぜそばも食べたかったのだが、つい定番を注文してしまう。ここで iPhone で撮った写真でもアップすればブログらしいのだろうが、わたくしは iPhoneAndroid ももっておりませぬ。

井筒俊彦『意識と本質』を取り敢えず再読し終えた。いまちょっとボーっとしているのであるが、大変なインパクトがあったので読み返してみてよかったと思う。後半部分ではカバラ(カッバーラー)の「セフィーロート」についての記述が印象的であるが、このあたりはわかりやすく図示もされていて、学生のときの読み方で基本的にまちがっていなかったのではないかと思う。それよりも自分のことで気がついたのだが、自分もこれまでの風潮に流されて、いわゆる mundus imaginalis(アンリ・コルバン)について深めていなかったなと思った。ポストモダン哲学では特に日本でラカンのいわゆる「想像界」が徹底的に貶められ、僕が学生の頃は「イメージ批判」というのは当り前のことで、「表象」というのがじつにもてはやされたものである。つまりは蓮實重彦なわけだが、いまでも基本的には何も変っていないだろう。それはそれで意味のあることだったが、イメージの力はまことに強く、いまやポルノグラフィーでも日本の HENTAI が全世界(でもないか)を制覇してしまったわけで、イメージ批判は実効的ではなかった。ちょっと話が逸れたが、結局ポストモダンは mundus imaginalis の力を理解できず、本能的にその危険を恐れたため、却って幼稚なイマージュが海底からボコボコとメタンガスのように湧き上がってきて、いまや留まるところを知らない有り様である。突然であるが禅は mundus imaginalis を殆ど無視するのだよね。あたかもそんなものはないもののように扱う。mundus imaginalis はまた「性」の広大な領域を取り込んでいるが、禅は「性」というものを取り扱わない。いや、仏教そのものが密教系を除き、「性」には及び腰であるようだ。仏教がインターネットに効果を発揮しにくいのも、そういう側面のゆえではないかと思う。
 それにしても、この『意識と本質』が作り上げてみせたツールは見事なもので、読んでいてこんなことが可能なのかと心底驚嘆した。自分などは、この論考が提供してみせたマップの見方が、ようやく大雑把にわかるようになったというレヴェルにすぎない。多くの方々の参戦(?)を期待したい。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

しかし自分は思うのだが、いわゆる「萌え」というのは、ユング的元型なのではなかろうか。そういうことをいうと東浩紀さんあたりに罵倒されそうだが。HENTAI というのは、まさしくユング的くにゅくにゅに満ち溢れてはいまいか。ふにゅ?

夜、仕事。

このところ、何でこうネガティブなことばかり書いているのかね。いかんなあと思う。でも、どうもネガティブな感想が浮かんでくるのだものなあ。源一郎さんではないけれど、いまの時代まともな感覚の持ち主ならば鬱にならない方がおかしいと思う。それがどうしてかは自分の手に余る問題である。ただ、子供たちを教えていても痛感するが、いまの人は魂の濃度が薄いというか、何か空洞になっている感じがする。魂の豊かさというのはそれこそ上に書いた mundus imaginalis に関係するが、つまりは想像力が貧困なのだ。ネットを見ていると、粗雑な魂が多いなあとつくづく思う。もう「魂」という言葉が不適切なくらい。そうでないようなブログを読むと、そういう人に限って生きづらくて、希死念慮に囚われていたりする。これは経験的事実であるが、僕が愛読するブログの書き手は生きづらい、「まとも」な人生行程から外れてしまった人が多い。そういう人の方が僕にはじつは「まとも」なのだ。なお、アフィリエイト目的ではてなスターをつけて下さる方は、別にかまいませんが無駄なので、無駄な行為はされない方がよろしいかと思いますよ。そうしたブログにはあまり興味がありません。どうでもいいですけれど。そういうつもりでないのならお許し下さい。

ゲーリー・スナイダー『奥の国』

曇。
昨晩は寝る前に井筒俊彦先生の『意識と本質』を読み返していたのだが(何度目かの再読である)、前は全然読めてなかったのだなと呆れた。いや、いま読んでいるのも後から見れば不十分に感じられるのかも知れないけれど、それにしても本質を語るのに、イスラーム哲学でいう「フウィーヤ」と「マーヒーヤ」の区別すら理解できていなかったとは。これでは本書の最初の部分がまったく理解できていなかったに等しく、こんなことでは読んでいるうちに入らない。まあ自分の読書なんてこんなものなのですな。
 しかし、この観点からすると例えばリルケマラルメが正反対の詩人であることが正確に理解できるというのがすごい。またさらに井筒先生は、この二人に芭蕉を対比させて考察しておられるが、じつに驚くべきである。してみると、自分はマラルメ的マーヒーヤの世界はあまり感受しないタイプなのかなと思った。いや、まだ正確には理解し切っていないと思われるが。
 それにしても、井筒先生は文学をじつに深く理解しておられるな。哲学者として、稀な人だと思う。本書冒頭でもサルトルの『嘔吐』への言及が見られるし。干乾びた自称「哲学者」とはまったくちがう人だ。

『意識と本質』を引き続き読む。第四章から第七章は、著者が「廻り道」という、特に禅に焦点を当てた記述である。ここで井筒先生は、先生のいわゆる「分節(I)」→「無分節」→「分節(II)」の構造を繰り返しちがった仕方で記述している。これは理解するだけならさほどむずかしいことはなく、実体験がなくても優秀な人間なら苦もなくこれを弄ぶことすらできるだろう。しかしこれはまた、実体験するというのはきわめて困難で、実際にこの境地を保って現実社会(つまりは「シャバ」)で生きていくことは、まことにむずかしい。というか、ある程度の体験をもった禅者ですら、自分の足を運ぶすべての場所でかかる境地を保つため、一生修行は止まないのではないだろうか。まあ、自分のような未熟者は憶測するしかない世界である。それにしても、絶対無分節の世界がおのずから自由に(剰語?)分節するということは、そのような境地に到達してしまえば苦もなく保てるようなものなのであろうか。未熟者としては、不断の「脱構築」(と時代遅れの術語を使うが)を行っていくしかないように思われ、何だかなあという感じである。にしても

…「空」または「無」はそれ自体は絶対無分節でありながら、しかし、いずれの場合でも、存在世界全体を構成する一切の分節を、それぞれの言語のアラヤ識的意味「種字」を通じて、可能的に含んでいるのである。(岩波文庫版 p.162)

とは驚くべきではないか。つまりは、絶対無分節といえど、それぞれの言語に規定される分節世界を無視できない構造になっているということである。むずかしい。いや、これは完全な包含関係ということだろうか?

昼から米屋。「コメの日」(笑)なので駐車場がいっぱい。帰りにスーパー。トマトジュースをまとめ買いするのである。
おやつの時間(?)に老父の作ったスイカ。みずみずしくってなかなか美味いんです。

図書館から借りてきた、ゲーリー・スナイダー『奥の国』読了。原成吉訳。本書に収められた詩は、そのかなりがスナイダーの日本滞在時に書かれている。周知のとおり、スナイダーは京都で長い期間禅を学んだ。そして、それだけのことはあったのである。僕はスナイダーを読むと何故かいつも、スナイダーは現在の日本人にはもったいないと思う。それはどういうわけなのだろう。いまの日本人におけるスナイダーの理解は、せいぜいビートニク詩人、あるいはエコロジー詩人というところではないか。もしそうならば、救いがたい傲慢のようにも思える。でもまあ、そんなことはどうでもいい。スナイダーの価値には関わりのないことである。

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

しかし、スナイダーは確かにビートニクではある。というか、スナイダーこそ最良のビートニクであろう。これを読んだ若い人たちが、勇気をもって自己を粉砕することを祈りたい。つまりは国家や社会によって敷かれたレールの上から、決然としてドロップアウトしてみよということだ。それであなたの人生は「破滅する」かも知れないが、そんなことは僕の知ったことではない。呵呵。

計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』

休日(海の日)。曇。


バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。昨日も聴いた演奏。


ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」op.55 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。この曲は(「第九」を措いて)ベートーヴェン交響曲の最高傑作だと思うのであるが、じつはヤルヴィのやり方ではどうかなと案じていた。この曲には力不足なのではないかと、失礼ながら危惧していたのである。しかし、ヤルヴィは頑張った。ここでもじつにフレッシュな「エロイカ」を聴かせてくれていて、しかも道を外していない。終楽章以外は。終楽章は正直言って、音楽のエートスを表現しきれていないと思う。それはテンポが速すぎることにも現れているだろう。これは惜しかった。とにかく、終楽章以外は目の覚めるようなベートーヴェンである。偉大なベートーヴェンとはちがったやり方で、彼を演奏できるということを示したチャレンジングな演奏だといえるだろう。


シューベルトアルペジオーネ・ソナタ D821 で、チェロはアントニオ・メネセス、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス。チェロにもピアノにも腹が立ってしようがなかった。別にお前の思い入れが裏切られただけで、悪い演奏ではないよと言われるかも知れないが、自分は許せない。ためらいもなにもない演奏である。この曲をこんなに鈍感に弾いていいものだろうか。それに、終楽章の突然転調して出てくるピアノのきわめて美しいソロ、これもピリスの繊細さのかけらもない演奏には怒りにうち震えるとすらいいたくなる。ああ、勝手な思い入れでスミマセン。でも、これは自分の愛して已まない曲なのだ。危険すぎるので、よほどでないと聴かないくらいの。

夕方、散歩してきました。いつものごとく、平凡な写真であります。




重複するのはあまり載せていないのだけれど、写真を撮りたくなる場所はいつも同じで、実際に同じ場所の写真ばかりを撮っている。昔の人がパワースポット(?)だと感じていたのは、案外こういう感覚なのかなとも空想する。まあ進歩がないだけといえばそうなのだけれどね。

計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』読了。副題「精神医学の虚実」。これはかなりおもしろかった。といって、僕は精神科医の書いたものを一般人が読むことに、最近は懐疑的になっている者である。僕は自分の問題意識で本書を読んだのであり、「哲学書」とか「評論書(?)」を読むようなつもりで、つまりは興味本位で読んだわけではないと言っておこう。たぶん、例えば中井久夫さんの本でも、本業に関しては、精神医学の同業者以外はあまり読まない方がいいのではないかと思うようになった。唯一の例外は悪名高い(?)ユング派の河合隼雄さんで、というのも、河合隼雄さんは「自分は本当のことなど口が裂けてもいわない」というような人だからである。
 しかし、本書はおもしろかった。中身もおもしろかったし(けれども中身については書くつもりはない)、この人がじつに口が悪いのも愉快だった。というのも僕は著者が何にいらついているのか、わかるような気がするからである。一般読者に受け入れられる精神科医の書くものは、まずまちがいなく軽薄なものであるからだ。本書の中身とはあまり関係ないことだけれど、ひとつ書いておく。人間というものは、条件が揃えば簡単に「狂い」ます。いや、「発病します」の方が穏当かな? 自分が狂わないとすれば、それはじつは運がいいにすぎないのだということははっきりさせておきましょう。言い換えれば、あなたは「精神病者」のことを気持ち悪く思うかも知れないが、あなたがその「気持ち悪い」人間でないのは、運がいいからにすぎないというのが真理です。で、だから何なのだといわれれば、これ以上申し上げることはございません。

まあ読みたければ読めばいいのだが…。