ゲーリー・スナイダー『奥の国』

曇。
昨晩は寝る前に井筒俊彦先生の『意識と本質』を読み返していたのだが(何度目かの再読である)、前は全然読めてなかったのだなと呆れた。いや、いま読んでいるのも後から見れば不十分に感じられるのかも知れないけれど、それにしても本質を語るのに、イスラーム哲学でいう「フウィーヤ」と「マーヒーヤ」の区別すら理解できていなかったとは。これでは本書の最初の部分がまったく理解できていなかったに等しく、こんなことでは読んでいるうちに入らない。まあ自分の読書なんてこんなものなのですな。
 しかし、この観点からすると例えばリルケマラルメが正反対の詩人であることが正確に理解できるというのがすごい。またさらに井筒先生は、この二人に芭蕉を対比させて考察しておられるが、じつに驚くべきである。してみると、自分はマラルメ的マーヒーヤの世界はあまり感受しないタイプなのかなと思った。いや、まだ正確には理解し切っていないと思われるが。
 それにしても、井筒先生は文学をじつに深く理解しておられるな。哲学者として、稀な人だと思う。本書冒頭でもサルトルの『嘔吐』への言及が見られるし。干乾びた自称「哲学者」とはまったくちがう人だ。

『意識と本質』を引き続き読む。第四章から第七章は、著者が「廻り道」という、特に禅に焦点を当てた記述である。ここで井筒先生は、先生のいわゆる「分節(I)」→「無分節」→「分節(II)」の構造を繰り返しちがった仕方で記述している。これは理解するだけならさほどむずかしいことはなく、実体験がなくても優秀な人間なら苦もなくこれを弄ぶことすらできるだろう。しかしこれはまた、実体験するというのはきわめて困難で、実際にこの境地を保って現実社会(つまりは「シャバ」)で生きていくことは、まことにむずかしい。というか、ある程度の体験をもった禅者ですら、自分の足を運ぶすべての場所でかかる境地を保つため、一生修行は止まないのではないだろうか。まあ、自分のような未熟者は憶測するしかない世界である。それにしても、絶対無分節の世界がおのずから自由に(剰語?)分節するということは、そのような境地に到達してしまえば苦もなく保てるようなものなのであろうか。未熟者としては、不断の「脱構築」(と時代遅れの術語を使うが)を行っていくしかないように思われ、何だかなあという感じである。にしても

…「空」または「無」はそれ自体は絶対無分節でありながら、しかし、いずれの場合でも、存在世界全体を構成する一切の分節を、それぞれの言語のアラヤ識的意味「種字」を通じて、可能的に含んでいるのである。(岩波文庫版 p.162)

とは驚くべきではないか。つまりは、絶対無分節といえど、それぞれの言語に規定される分節世界を無視できない構造になっているということである。むずかしい。いや、これは完全な包含関係ということだろうか?

昼から米屋。「コメの日」(笑)なので駐車場がいっぱい。帰りにスーパー。トマトジュースをまとめ買いするのである。
おやつの時間(?)に老父の作ったスイカ。みずみずしくってなかなか美味いんです。

図書館から借りてきた、ゲーリー・スナイダー『奥の国』読了。原成吉訳。本書に収められた詩は、そのかなりがスナイダーの日本滞在時に書かれている。周知のとおり、スナイダーは京都で長い期間禅を学んだ。そして、それだけのことはあったのである。僕はスナイダーを読むと何故かいつも、スナイダーは現在の日本人にはもったいないと思う。それはどういうわけなのだろう。いまの日本人におけるスナイダーの理解は、せいぜいビートニク詩人、あるいはエコロジー詩人というところではないか。もしそうならば、救いがたい傲慢のようにも思える。でもまあ、そんなことはどうでもいい。スナイダーの価値には関わりのないことである。

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

奥の国 (ゲーリー・スナイダー・コレクション4)

しかし、スナイダーは確かにビートニクではある。というか、スナイダーこそ最良のビートニクであろう。これを読んだ若い人たちが、勇気をもって自己を粉砕することを祈りたい。つまりは国家や社会によって敷かれたレールの上から、決然としてドロップアウトしてみよということだ。それであなたの人生は「破滅する」かも知れないが、そんなことは僕の知ったことではない。呵呵。