高度資本主義と「サブカル」

昧爽起床。曇。

NML で音楽を聴く。■ボロディン弦楽四重奏曲第二番 ニ長調で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。この曲が聴きたくなったので。この曲には民族的な情感を盛った限りなく優しいメロディがいくつも出てくるのであるが、それと楽曲を成り立たせる知的なフォルムの統合に苦心した曲かなと思った。そのあたりにひとつの解答を与えたのがチャイコフスキーだろうが、わたしにはまだ未熟なボロディンの素朴なメロディの方が好きな気がする。なお、ボロディンQの演奏は申し分ない。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第一番 op.5-1 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NML)。ベートーヴェンは野蛮人だと思う。その意味で反文明的だ。そして、そんなベートーヴェンがわたしは大好きだと付け加える必要があるだろうか。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第二番 op.5-2 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NML)。■コダーイ無伴奏チェロ・ソナタ op.8 で、チェロは川上徹(NML)。

このところ、吉本さんが晩年に、徹底した孤立無理解に晒されながら(それは現在まで続いている)、高度資本主義とその日本的な表現を探求していったことをぼんやり考えている。高度資本主義は現在ではグローバル資本主義といってもよいと思うが、それを生み出した西洋の態度は、その現実の上でそれを肯定し、勝ち組を目指す(保守)か、反対に高度資本主義を破壊する(マルクス主義由来のリベラル)かというものに大別されるということは、いまさらいうまでもないことであろう。日本でもその構図は基本的に存在するが、日本における特殊的表現として、高度資本主義の展開を基本的に(諦めて)受け入れ、その運動を深いところで引き受けて表現に落とし込む、マンガ、アニメ、ゲームその他の「サブカル」として一括される態度がある。吉本さんが晩年に探求していったのはこれであって、「サブカル」はそれなりにある意味では豊かといえる成果を確実に生み出し、それは世界的に広がっていって確実に受容されるようになってきている。これを新たな「ジャポニズム」とするのは決してまちがいではない。この態度が「正しい」かどうかはわたしにはよくわからないのであるが、我々の世代が生きてきた中で日本的にリベラルのイデオローグを引き受けてきた例えば柄谷行人浅田彰の「批評空間」が没落し、そこから誕生したものの「サブカル」を積極的本質的に受け入れ、理論的に展開していった東浩紀の独り勝ちとなったことは、ひとつの象徴として考えるべきものをたくさん含んでいることは明らかである。さて、日本の「サブカル」は(高度資本主義に関して)現実受容的であり、現実変革的でないのはどう考えるべきなのか。また、それらが高度資本主義そのものを変質させていくことがあるのか。いずれにせよ、このままではリベラルに可能性は少なそうだというのがこのところのわたしの実感である。ならば、若い人たちのように「サブカル」でいくべきなのか(リベラルと「サブカル」がトレードオフの関係にあるかははっきりしないが、かなりそれっぽいという印象はある)。しかしまあ、それは若い人たちが全力でやっていることであり、わたしのような人間は別のことをやればよいというのは個人的には明らかなことだ。他人にはどうでもいいことですね。

なお、わたしは既に「サブカル」世代であり(東浩紀の少しだけ年上)、「サブカル」に別に違和感があるわけでもなんでもない。マンガは活字本と同じくらい読んできたし、子供の頃からアニメは見てきたし(ヤマト、ガンダムマクロス世代!)、ゲームもかつてハマった。いま「サブカル」しなくなったのは、歳をとって硬直化したからにすぎない。
わたしは基本的にモダンの延長線上にあるのだが(つまりアナクロ)、高度資本主義はモダンから誕生しつつ、モダンを破壊していく運動性をもつ。中沢さんが過去へ過去へと限りなく深くダイブしていくのは、その破壊の限界点とオルタナティブの探求であるということが確かにあるだろう。中沢さんの「知の考古学」は、新石器から旧石器に至るところまで進みつつある。それはまた、吉本さんの成果の延長線上にあるところもあるだろう。
モダンはある種の安定性があったのだが(例えば澁澤龍彦)、それを破壊することで現代人の精神の不安定性がもたらされることになった。これは吉本さんのはっきり気がついていたことである。吉本さんはこれを彼らしく「公害」と呼んだが、おもしろい表現だと思う。この精神的病の多発(吉本さんの正確な表現は忘れた)が、これからいちばんの「公害問題」になる、と。
それから、近代(モダン)に関して、小林秀雄は日本での「近代批評の創始者にして完成者」といわれることがふつうであるが、これはかなりミスリードである。小林秀雄はとてもそれに留まらないし、もっともっと先のところまで気づいていた人だ。ただ、なかなか現代的な表現が見つけられなかったというところはあるかも知れない。それが現在での小林秀雄の忘却と関わっているのでもあろう。

インターネットの射程はまだ誰にもわからない。というか、インターネットはまだ「自然史過程」的に発展し尽くしていない。インターネットはコンピュータと不可分であるが、そのコンピュータのプログラミング言語の可能性については、ひととおりの基本的な材料は既に出尽くした感もある。手続き型、OOP、関数型。しかし、これからプログラミング言語のメタ発展がないとはいえない。インターネットが本質的にIP網であることは最初から何も変わっていないが、インフラ上位層はクライアント・サーバ型(ウェブサービスというのは基本的にこれを指すようになっている)がほぼ制覇し、P2Pなどの発展は阻害されている。これは「政治的理由」といってよく、これからは権力によるインターネットの管理が大きな問題になっていくだろう。それは「管理社会」の到来の不可避とも関係している筈である。

昼からイオンモール各務原。「足下を見る」という言葉があるが、いま履いている靴を履き潰したので、靴屋でウォーキングシューズと革靴を買う。わたしとしてはかなり高額だったけれど、コロナ給付金も出たしね。なかなか気に入ったのを買うことができた。
「恵那 銀の森」でアップルパイとわらび餅を購入。

図書館。まだまだ人は少ないな。


日没前。買ったウォーキングシューズで少しだけ散歩。

 
早寝。