読書のリハビリ

晴。
昨晩は中沢さんを読んで寝た。そのせいか(?)、すごくプリミティブで怖い夢を見た。まあ悪夢なのだろうけれど、とにかくおっかなかった。

いい天気なので30分あまり散歩。
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ウチの連翹。
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きったない猫(笑)。
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ヌートリア。どこかのおじさんが川に放り込んでいるパンくずを食べているところ。


NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はイザイ弦楽四重奏団NMLCD)。

昼食は一刻魁堂各務原店。一刻こってりラーメン+ギョウザ923円。入っていたチラシにクーポンが付いていたと老父がいうので行ってみた(老父はクーポンとか好きである)。で、支払いのときにクーポンを出したら、「これはウチじゃありませんね」と言われてしまった。よく見たらクーポンは「壱鵠堂」でした(笑)。今日行ったところも元は「一刻堂」だし、何ともまぎらわしいな。味はふつうでした。少し塩辛かった。

面会。退院がほぼ決まる。もう何もありませんように。

ドラッグストアをはしごする。

リヒャルト・シュトラウス交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 op. 28 で、指揮はセルジュ・チェリビダッケスウェーデン放送交響楽団NML)。

フォーレノクターン第二番 op.33-2 で、ピアノはフランソワ・デュモン(NMLCD)。

夕飯は小さく切られたステーキ牛の焼肉、紅菜苔とサラスパとハムのサラダ、あとは残り物。結構おいしかったのではないか。

今日で東日本大震災から九年。テレビを見ていてちょっとうるっときてしまった。九年経っても、震災で肉親を失った悲しみは癒えないのだと思った。それは、そうだろうな。本当のところは自分にはわからないのだろうけれど、それでも見ていてつらかった。また、復興も思い通りには進んでいないということ。現実はきびしいなどと、陳腐としか言いようのない言葉しか出てこない。わたしは、怠惰ゆえ、東北の人たちのためにほとんど何もしてこなかったなと思う。

中沢新一と山極寿一の対談本『未来のルーシー』を読み始める。山極先生はわたしの学部の大先輩で、いまは京都大学の総長である。いわゆる「サル学」の人で、もちろん理系であり、中沢さんも理系だから、ツーカーというか何というか、理系のわたしにはこんなおもしろい本はない。しかしわたしは物理なんぞをやっていて、せっかくの「サル学」には目もくれなかったのだから、センスがなかったなあ。それにしても、本書は本当におもしろいので、過去の数万年、数十万年という単位で話が進んでいって、ワクワクさせられる。ここでは、人間の能力、特に「脳力」の人類学的起源、あるいはその近辺の問題が徹底的に探索されていく。その中でも、比喩能力の重要性。ネアンデルタール人には比喩の能力はなく、現生人類は比喩の能力をもっていたからこそ、ネアンデルタール人よりも小さな脳で情報の圧縮、外化を可能にした。本書で強調される中で、二種類の「ゼロ」の話は中沢さんが特に展開している。「ない」ということがどうしてあるようになったのか。山極先生の話だと、イルカなどには「ない」ということを理解させることが可能だという。…こんなことを書き連ねていると切りがない。あんまりおもしろいので途中で読むのを中断する。一気に読むのはもったいなさすぎるので。

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

かの悪名高い(笑)中沢新一の著書が並んでいる棚。前後にしてももう新しい本が入らなくなってしまったので、何とかしなきゃ。
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読書のリハビリをそろそろ始めたい感じ。

それにしても、かつて浅田さんが中沢さんを面と向かって徹底的にバカにした対談があったのだが、いまになって本当に差が付いてしまったのかなあと思う。中沢さんが70歳になろうとしてますます巨大な仕事を次々となさっている(まあどれだけの人が知っているかはわからないが)のに対し、浅田さんはじつに無害で無慙なことになってしまっているように見える。クズのわたしがいうのも何だが、あのラディカルだった筈の浅田さんでもこうなってしまうとは。じつにどうでもいいことですけれども。