こともなし

晴。

自然、人間、環境、社会、作品、ネットなどに接しながら、心を調えていくのは一生仕事だな。しかし、そのことは忘れられている。

スーパー。

「マガジン9」で森永卓郎さんや雨宮処凛さんの記事を読んだ。部屋で何もせずごろごろした生活を送っていても、わたしは否応なく社会と繋がっている。よいことか、悪いことか、わからないが。

不易がなく、流行しかないという精神。不易も流行も、どちらも必要だと芭蕉はいった。変わらないことも、変わることも必要なのだ。
「不易」が「変わらないこと」というのは、ちがうかも知れない。「不易」はいわば全体性であり、土台だ。不易がないとは、しっかりした土台がないということだ。
また云う。不易とは個性のことだ。個性は簡単に変えることができない。「三つ子の魂百まで」というように、無意識レヴェルでは一生変えることができないと考えてもいい。つまり、個性がないというのは、土台がないということである。

衆議院議員選挙の不在者投票に行く。いい天気で、市民公園あたり少しずつ紅葉も始まっており、カメラをもっていかなかったのが残念なくらいだった。
図書館。ようやくオバマ大統領の回顧録を借りてきたが、全二冊の大部なもので、読むかどうかはわからない。あと、坪内祐三さんとか。
図書館へ行くと元気が出る日と元気を失う日があるが、今日は失う日。書架を見ていてあまり楽しくない。


あんまりいい天気なので、先ほど訪れた市民公園に、今度はカメラをもって行ってくる。日没前、40分ほど散歩。



















市民公園から新境川堤を経て、学びの森へ。

濱口先生の『ジョブ型雇用社会とは何か』の続き。第二章の後半と第三章「賃金」を読む。いま、脳みそが腐っているので簡潔に。濱口先生のいう「メンバーシップ型」雇用形態というのは驚くべきことに世界で日本だけなのだな。まったく、読んでいると複雑怪奇で、非合理的といえばじつに非合理的であり、どうしてこんなことになっているのかと思うのだが、歴史的に何の「合理性」もなかったということはやはりあり得ないだろう。例えば賃金の年功制はもともと「生活給」主義というか、家族が暮らしていけるだけの賃金を払うという考え方であり、それはそれなりに理解できないわけではないと思った。一定の「合理性」がある。それに比して外国の「ジョブ型」というのは、家族全体のことなどは会社は一切関知しないということで、個人主義的ともいえる。でも、いまでは日本でも、当然後者の考え方に近づいているわけであろう。
 それから、わたしがわからなくなってしまった日本における「同一労働同一賃金」であるが、第三章に解説があった。おおよそのところは思ったとおりで、わたしの脳裏にあったのは、日本における正規雇用と非正規雇用の「同一労働同一賃金」であり、これも日本だけの特殊な問題なのだな。諸外国にあっては、「同一(価値)労働同一賃金」というのは、労働における女性差別の観点から出てきた概念らしい。だから、外国の常識では、日本での文脈はまったく理解できないとなるのだろう(逆もまた真)。
 それにしても、わたしが「会社」というところで働いたことがないせいが大きいのだろう、本書はわたしにはむずかしい。日本は「やる気」で賃金が上下するとか、そうなんですかといいたくなる。「会社への忠誠」の重要性なども、話には聞いていたが、えーマジですかって感じ。また、白状しておくが、わたしは労働論や法律論ということは、きちんと勉強してこなかったなと痛感する。恥ずかしいが。