こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第五番 BWV1011 で、チェロはピーター・ウィスペルウェイNMLCD)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十五番 K.450 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。■リヒャルト・シュトラウスの五つのピアノ曲 op.3 で、ピアノはクリストフ・シュトゥルツェンエッガー(NML)。よくは知らないけれども、リヒャルト・シュトラウスの若い頃の作品ではないか。僕はグレン・グールドの録音でしか聴いたことがないが、以前から印象的な曲集だと思っていた。この演奏で聴くと、ブラームス晩年のピアノ小品に影響を受けているのを感じる。それをさらに複雑で洗練したような感じ。第一曲の後期ロマン派的な転調、終曲の対位法的な展開など、小品集なのに凝っていて、あまり気楽には聴けない。そこらあたりが、魅力的な曲集なのに、あまり演奏されない原因なのではないかと思ったり。なかなかいい演奏でした。

 
ウチの夏みかんで自家製マーマレードを作る。
ミニトマトの苗をプランターに入れる。毎年遊びで育てているもの。
 

 
なぜ日本企業は欧米のような「エリート選抜」ができないのか 山内麻理氏に聞く - 弁護士ドットコム
濱口先生のブログで知った記事。メンバーシップ型社会(=日本)でエリートを選抜・優遇するのはむずかしい。そもそも我々の世代は大学で勉強しなかったが、いまの世代はそうでもないだろうから、エリート予備軍というのは(たぶん)日本にも居るのだろう。しかし、日本の会社は大学での勉強がほぼ活用できない、メンバーシップ型雇用なので、(エリートに限らないが)そのスキルを有効に活かすことができない。入り口も横並びで皆んな一緒だ。いま「ジョブ型への転換」と(浅はかに)いわれているのは、そのあたりの問題を企業なりに痛感しているのだろうが、それこそ無知が幅を利かせている現状らしい。
 でも、じゃあ具体的にどうすればよいのかというと、わたしなんかには全然わからない。社会と接していないから、当たり前だ。優秀で深い知識をもった若者は居るのだろう、でも、彼ら彼女らが活きる構造になっていないのは、結局いまの大人である我々が、かほどにひどい状況になるまで事態を放置した結果だと、まことにつらい思いがする。我々の世代は、思考停止のそれだった。
 無知のポエムを書く。資本主義社会は弱肉強食だ。その中で生き残るには、常にそれにみずからを最適化していかねばならない。よくも悪くもぬるま湯の中でのんびりとやっている日本社会は、知らぬ間に詰んでしまった。確かに、君たちのおじいさん(と少数のおばあさん)たちは、「モーレツ社員」とか「エコノミック・アニマル」と呼ばれたこともあったわけだが、さて、何を選ぶのがいいんだろうね。しかし、いまこのまま「モーレツ社員」とか「エコノミック・アニマル」したところで、空回りするだけだろうけれど(実際、ブラック企業ってそれだよね)。若い人たちは、結構「国なんて中等国でいい」と思っているような気もする。
 日本というシステムが「世界標準」並になるべきだとすれば、長期間にわたる、激痛をともなう社会全体の変化が必要になるにちがいない。それはいまある日本のよさの多くを、殺してしまうことにもなるだろう。我々は、どう決断すべきなのか。でも、放置しておいても、どうせ「日本のよさ」は多く失われてしまうような気もする。
 
いまの日本の大人たちは、視野が狭く、考える力がない。なのに、皆自分だけはそうでないと思っている。
 

 
雨がぱらつく中、昼から県図書館。「新潮」誌の中沢さんの連載「精神の考古学」第5回を読む。段々むずかしくなってきた。セム(心)とセムニー(心の純粋な自性、だったかな?)のちがいというのは、まだわたしにはよくわからないが、両者はふだんは水とアルコールのように、たがいに溶け合い、入り混じっているけれど、修行によって分離することが可能であるという。
 心はどこからも来ないし、どこへも行かないというのはわかってきた。心はわけもなく、ただ存在し、変転し続けているのだ。そして、唯識でいうアーラヤ識も、心ではないというのは、思ったとおり。ただ、まだまだ理解が不十分だ。我々の苦しみは何なのか、というのがはっきりとわかっていない。セムニーに苦しみがないのは推測できる。我々の苦しみは、粘性が高い。
 
 
古松崇志『草原の制覇 大モンゴルまで』を読み始める。中国西方、騎馬遊牧民史。

 
夜。
鬱々するので、八時ころ床に就く。一時間ほどして寝付く。