現代のエスタブリッシュメントと文化

深夜起床。晴。
昨日は田舎者が一日田舎のすばらしさを心から堪能したので、夜はさすがにネットの薄っぺらな喧噪が耐えられず、さっさと寝てしまい、そのせいでえらく早起きしてしまった。
 それにしても、昨日の柏原の徳源院にせよ、それから 11.7 に訪れた尾西の起(おこし)宿の林家にせよ、まったく知らなかった、予期しなかった田舎に、それなりに立派なかつての日本家屋や、お庭があって、薄っぺらな現代文化・文明に生きている自分からすると、今とは隔絶したかつての文化の洗練とその高さをあらためて痛感させられるわけで、まったく、いまの日本ってなに?って思わされる。いまの日本文化は、いったい将来に、何を残すんだろう、他方、かつてはなぜ、田舎にかかる洗練された文化を残せたのか、って、つい思ってしまう。
 いや、まあそれこそかつては、階級が歴然とある社会であり、一部に富の蓄積が集中したわけだが、そのエスタブリッシュメントに、ある程度の「文化的教養」とでもいうべきがあったのは否めない。そして、田舎にも、そういうエスタブリッシュメントが存在していたし、それによる特権的な文化が存在していたのである。
 しかし、いまも「階級社会」という点ではさほど事情はちがわず、富は驚くほど偏在し、集中しているが、それはあくまで「都会」にであり、田舎は衰退する一方である。そして、もうひとつ、現代のエスタブリッシュメントは、正直いって、頭が悪く、教養がなく、空疎で、文化程度が低い、それは歴然としている。
 我々は、「記号」「抽象概念」に塗れた現代のエスタブリッシュメントに、文化を期待してはならない。それはムリというものだ。現在においてまともな「文化」が可能であるとすればいかなる形態においてであるか、我々は考えるべき時がきている。たぶんその「文化」は、見えないところ、言語化を超えたところにあるであろう。
 

 
昨日買った海津の草餅を朝食時に食う。余計なものの一切入っていない素朴なもので、なかなかよかった。福祉施設で作ったものみたいで、蓬(ヨモギ)は冷凍なんだろうけど、ちゃんと春の風味が残っていたよ。
 
にゃーんかな。
昨日の朝日新聞に「若者が戻りたくなる『寛容な故郷』に」って記事があった。「地元を出た若者をどう呼び戻すか」っていうので、彼ら彼女らは仕事のあるなしでそれを決めるんじゃない。例えば働き先の少ない沖縄県の、Uターン率が全国トップ(42.4%)だという。
 じゃあ、決め手はなにか。それは地元の「寛容性」じゃないか、って記事だった。その「寛容性」の定義は記事に詳しくなかったけれど、とにかく、結果として、地元への Uターン傾向と「寛容性」の間には、統計的にきれいな相関があることが見出された、という。つまり、「こうでなければいけない」と決めつけない。邪魔をしない、口を出さない、足を引っ張らない、新しいことを始める人を応援する。そういう地元に、若者は帰ってくるそうである。
 ちなみに、岐阜県は、Uターン傾向も「寛容性」も、全国最低レヴェルだった。わかる気がする。
 しかし、正直いって、なーんだかな、って感じもする。寛容性、ね。
 

朝顔の実、11.24 の散歩中に。
 
昼。曇。
珈琲工房ひぐち北一色店。
 図書館から借りてきた、シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(原著2018、邦訳2019)にいちおう目を通したが、いまひとつよくわからなかったな。著者が説明なしにいきなり冒頭から連呼している「左派ポピュリズム」てのが、結局、よくわからない。右派ポピュリズムっていうなら、まだわかるのだが(いまの日本なら、参政党がその典型だろう)。左派ポピュリズムってのは、たんなる左派とどうちがうのか。というか、著者は「中道左派」(著者はそれがいわゆる新自由主義、あるいはサッチャリズムに屈したと考えているようだ)ってのと、区別してみて欲しいようだが。そのあたりは、まあ、わたしの無知無能ゆえにわからないんだろうな。
 著者が「ヘゲモニー」とか「闘技的」とかいってるのもなあ。どうやら、異なる政治的主張があるとき、それらをすり合わせてコンセンサスを得るような仕方を採るべきでなく、相手の主張を議論で否定して、自分の主張を認めさせねなばならない、みたいな感じ? よくわからんけど。でも、そんなこと、個々の政治的主張の内容その他によるのであって、態度をア・プリオリに決定できることなの?
 てな感じで、よくわかりませんでした。バカだねえ。

Wikipedia によれば、日本の左派ポピュリズム政党としてれいわ新選組が挙げられている。え、そうなの?
 ちょっとだけ AI に訊いてみると、左派ポピュリズムの特徴として、反エリート、富の再配分、新自由主義への反対、民主主義の深化(って何?)、などが挙げられていた。ふーん。
 
夜。
さて、なんか今日はめちゃめちゃエラソーなわたし。身の程知らずにも、こういうときもあるさ。