高橋源一郎『丘の上のバカ』

日曜日。曇。
当然のことながら、睡眠時間短し。PC遊びなんぞ誰の役にも立たないのでそんなことばかりしていてはイカンかなあとも思うのだが、まあいいよね。でも、PC遊びだけではよくないのだ。接続接続っと。
午前中は睡眠の後始末。悪くない感じ。
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音楽を聴く。■C.P.E.バッハチェンバロ協奏曲変ホ長調 H.473(アスペレン、参照)。

ブラームスのピアノ協奏曲第一番で、ピアノはユジャ・ワン。2011/1/19 Live. ユジャ・ワンはデビューしたての頃は速射砲のような無機的メカニックな演奏で一種の爽快感があったのだが、これはまたイメージがちがう。どちらかといえばマッシヴで重いピアノだ。演奏者名を聞いていなければ、ユジャ・ワンのピアノだと思わなかっただろう。まあふつうっぽい演奏で、曲を聴くには充分だが、それほど個性的でもない。ただ、何かおもしろいのだよね。何だかよくわからないが。ちょっとグリモーのピアノみたいになってきた。中では第二楽章がよかったかな。指揮のロジャー・ノリントンはふつうで、ピアノよりは一段劣るとしかいえない。録音はいまひとつで、マイクがちょっと on すぎるような気がする。

ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの三楽章で、これもユジャ・ワンのピアノ。2009/8/1 Live. これこそ上に書いた、速射砲のような軽くて切れ味の鋭いピアノである。これがかつてのユジャ・ワンの特徴だった。この演奏など、軽くて自由な「ペトルーシュカ」で、一種の名演と言って差し支えないだろう。ユジャ・ワンのピアノはいまではこうではなくなってしまったのかな。

ブーレーズ:Anthèmes 2。久しぶりにブーレーズを聴いたが、乾いた知性の美に感銘を受けた。ブーレーズはまさしくモダンアートの親玉である。ヨーロッパではじつはいまだにモダンアートはその凡庸な形態で支配的であるが、さすがにブーレーズともなるとちがう。いま聴いても依然ラディカルだ。じつにもっと聴きたくなってくるのだよね。ただ、自分はこの方向には未来はあまりないと思っているし、ブーレーズは時代を支配したが、師匠のメシアンの方がより偉大であるとも思っている。まあしかし、そんなことが何だろうか。

Kubuntu はすごく凝っていてカッコいいのだけれど、ホント凝りすぎなのだよね。却って使いにくい。いま使っているのは Kubuntu 16.10。

Ubuntu Budgie が気に入っているのだけれど、なかなか安定しないので困る。

高橋源一郎『丘の上のバカ』読了。副題「ぼくらの民主主義なんだぜ2」。メディアで見た文章で源一郎さんについて書かれたものは、これまで殆どが悪口や非難、揶揄のそれしかなかったような気がする。なぜ多数のかしこい人たちは、源一郎さんをバカにするのか。本書の題名の「バカ」は単に源一郎さんのことだけではないが、確実に源一郎さんの自己評価でもある。かしこい人たちは、そういう物言いも「戦略」だと考えるのかも知れない。とそんなことに反応するのは、自分もいまに至って自分をつくづくバカだと思うようになったからだ。世の中は本当にかしこい人たちに溢れている。バカはこれまた確実に少数派である。たぶんかしこい人たちは、バカが喋るのが気にくわないのだろう。自分も沈黙したい気がする。といっても、この過疎ブログなど沈黙に等しいわけだが。
 ポストモダン哲学の最大の功績のひとつは、「自分の言葉だと思っているものはじつは、その殆どがじつは他人の言葉にすぎない」という事実を明らかにしたことであると思う。ってこれは僕の理解にすぎないから、テキトーです。源一郎さんがすごいし、その言葉が自分の琴線に触れる理由は、その事実を源一郎さんがわきまえているからだとも思える。とにかく自分なりに自分で考えてみることは、バカにもかしこい人にもまず不可能なくらいむずかしいことである。本書での源一郎さんの意見は確かに自分には納得・共感されるものがとても多いのだが、結局はそれが「正しい」からというより、自分の手持ちの材料で考え抜こうとするその姿勢にいちばん共感するのだと思う。それは必然的にまちがうのだが、我々バカはそうして考えるしかないのだ。本書は政治という難物を相手に、源一郎さんが徒手空拳で立ち向かったバカの記録なのだと思う。