水口憲哉『海と魚と原子力発電所』/ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』

晴。
未明に目覚める。
音楽を聴く。■バッハ:管弦楽組曲第二番 BWV1067(ミュンヒンガー、参照)。■バッハ:カンタータ第44番「人々汝らを除名すべし」 (カール・リヒター参照)。■ブラームスヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24(ラブラ編曲) (アシュケナージ参照)。何となくこんなバージョンがあったような気で聴いていたのだが、ハイドン変奏曲はブラームス自身がオーケストラ版を書いているけれど、ヘンデル変奏曲はないのだよね。結構ブラームスっぽく編曲してあると思う。アシュケナージの指揮は色彩感があって、ブラームスとしてはミスマッチなのだろうが、わりとおもしろい。しかし、どうせならピアノで弾いてくれればいいのに。■シベリウス交響曲第六番 op.104 (カラヤン 1967)。シベリウスを得意としているカラヤンで、あまりにも澄み切っていて美しい。西洋の最高級品。■シューベルト:三つのピアノ曲 D946 (ピリス、参照)。そっけない題だが、重要な曲である。特に第二楽章はシューベルトの中でも屈指の傑作のひとつ。いい録音も少なくなく、このピリスのも素晴らしい。 

どうしても熊本の地震の報道を見てしまう。いとこが南阿蘇村に住んでいるのだが、家族全員無事ということでそれはよかった。皆さんの、これ以上事態が悪くならないことを祈りたい。
図書館から借りてきた、水口憲哉『海と魚と原子力発電所』読了。色いろと考えることができた。本書を読んでいてわかったのは、原発反対運動と言っても様々だが、結局漁民の根底にあるのは「今までと同じ、ふつうの生活を続けたい。これまで通り、漁をやって暮らし続けたい」という感情である。人によっては、これを自分勝手な物言いだと感じるかも知れない。けれども、自分はそうは思わない。誰でも己の身に引きつけて考えれば、庶民の当り前の感情であるとわかるだろう。「今までと同じ、ふつうの暮らしを続けたい」というのは、これを表わす一言があるのだろうか。面倒なことを考えるのが得意な西洋人なら、何かうまい言い回しをもっているのかも知れないが、自分は無知である。それはひとつの「権利」と見做すのが相当なのだろうか。もう少し考えてみたい。
 著者は書いているが、「どうもそこの角地は、人通りも多いし日もよく当たる。うちの商売にはもってこいだ。うちにゆずってもらう」というのはどう考えても乱暴ではあるまいか。しかし、原発建設を言う電力会社の発想は、それと同じことである。また、豊北の漁民は「原発国益ならブリを獲るのも立派な国益でしょうが」と言ったそうだ。まことに当然の話である。
 以上の話とはちょっとちがうが、原発の排水であるけれども、これにはもちろん放射性物質が少なからず入っている他に、漁業に関しては「温廃水」の影響が非常に大きいようだ。原発の排水の温度は周囲の海より 7℃ほど高く、またその排出量は膨大で(毎秒70トン)、海の生物はわずかな温度差にも微妙に反応するため、漁業への影響が大きいのである。しかし、このことはそれほど知られていないようにも思える。これについて、国が正式な継続的調査をしたということは、自分は知らないのだが、あるのでしょうか。
 それから、核燃料の再処理工場の出す排水は、原発のそれよりも遥かに高濃度の放射性物質を含むそうである。これも知らなかったことだ。
 原発賛成派にも色いろな議論があるだろうが、調べていると原発賛成派はどこかで必ずウソをつかねばならなくなっている。そのような議論は、議論とは云えない。そして、そんなことが多すぎる。

本書収録の対談を読んでいて思ったことに、科学的なファクトを知ることの重要性は誰も異論がないだろうが、直感レヴェルの「きもち悪さ」みたいなものは切り捨ててよいものかということがある。例えば、原発の近くの漁民は、原発の周囲で獲れた魚はどうもきもちが悪くて食べないという。まあ当然の感情という気がする。じつはそれは漁民だけのことではなくて、電力会社の社員も、原発近くで宿泊するときは、地元の魚を食卓に出さないよう要請するそうだ。まあこれも気持ちはわかるが、そんなことでいいのかね。身ぶり態度が語っているというか。
 原発についてはまだ「原理的」「哲学的」に考えるべきことがたくさんある気がする。多くの人は(賛成派も反対派も)、原発について「原理的」に考えることを不要だと思うのかも知れない。頭の中で考えをもてあそんでいるだけだと。でも、僕はそうは思わない。例えば「民主主義」というのも、頭から生まれた発想だが、現代において(経済学者ですら)絶対に無視できない概念になっている。僕は福島の原発事故の後、中沢さんが「エネルゴロジー」といったような原理的考察をして、むしろ反発されたのを覚えているが、やはり中沢さんはさすがだったと今でも思う。
日本の大転換 (集英社新書)

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それから、100万人のためになるのだから、お前ひとりは我慢しろというのは、正しいのだろうか。自分が100万人に入っているならいいかも知れない。でも、自分がその「ひとり」だったら?
 僕は国家というものはなくならないと思う。国家が民衆のためになることもあるだろう。しかし、国家と民衆というのは、究極的には相容れない存在なのだとも思う(参照)。
 原発というのは、どうもそれ以前の話なのだが。
 東浩紀さんは国家乃至政治を技術論化することを考えておられるようだ。しかし、合理的に技術論化された国家とは、究極の管理国家になると思う。国民のあらゆる活動が、国家に把握されることになるだろう。それは、国家から権力を守る暴力装置を切り離すことができないことと関係がある。国家には、自らを保存し存在しようという「意志」に近いものがある。それがなくなることはない。
 ちょっと話は飛ぶが、僕はインターネット化された世界が恐ろしいように感じる。インターネットの世界には匿名性が殆どない。匿名性は不可能ではないが、高度なコンピュータ・スキルが必要である。つまりは、優秀なハッカーでないと不可能だ。インターネットで動くと、サーバーのログという形その他で、ほぼ確実に証拠が残る。恐ろしいことである。
 さて、ここでインターネットと国家という問題が出てくる。これについても、考えるべきことはたくさんあるようだ。

ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』読了。柴田元幸訳。なかなかおもしろかった。軽いタッチがいい。アルメニア系移民一世(実態は難民だったようだ)の土くささみたいなのがよく出ている。しかし、シンプルなお話が並んでいるが、そんなに単純なものではないね。ひと捻りあるというか。例えば「三人の泳ぎ手」の店主は、まるで禅僧みたいではないか。子供たちに不思議な印象をもたらす筈である。あれは壊れているのか、何なのかって。
僕の名はアラム (新潮文庫)

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