黒川みどり&藤野豊『差別の日本近現代史』

曇。
朝寝坊。このところ、起きて一時間くらいは使い物にならない。というか、睡眠の後始末に追われる。寝るのは楽しみなのだが。昨晩は枕頭の書に澁澤龍彦を選んだ。澁澤を読むのは久しぶり。やはりこんな人は滅多にいないという感を強くする。

自分で作った魚拓プログラムだが、増改築を繰り返したプログラムの典型なのだろうと思う(参照)。後からでも何とか読めるのは、Ruby の可読性の高さに助けられているからに過ぎまい。OOP化しようと思って途中までやってみたが、やはり一度動くものを作ってしまったのでモチベーションが上がらず、途中でそのままになっている。でも、途中まで OOP化したのは、だいぶ勉強になった。やはり OOP というのはむずかしいのではなく、プログラミングを楽にするものなのだなあとわかる。って本当に初心者なんですよ、恥ずかしながら。
 JavaScript円を衝突、跳ね返らせるプログラムを組んだときも(参照)、これは OOP化しなかったら、複雑になりすぎて挫折していただろう。円のクラスとベクトルのクラスを作ってやったからこそ、楽にプログラミングできたのだった。特に計算の部分が上手くいったと思う。
愛知県安城市の図書館に オライリーの本が全部揃っています
すごい…羨ましい…。
プログラミングで食べていきたかったら Webデザインをやらないといけないのだろうが、まったく興味なし。ダサい HP で充分なのだ。たぶん初心者から抜けられないので、それで食っていくとか論外だし。しかし、誰もが PHP クソって言っているので、却って興味が湧いてくるけれども。

図書館から借りてきた、黒川みどり&藤野豊『差別の日本近現代史』読了。勉強になったし、こう云っていいかわからないが、とてもおもしろくもあった。堅い研究書であるが、読者を様々な連想に誘うところがある。例えば、日本の単一民族幻想。これはアイヌの存在などで否定されるべきであるが、結局「分ける」べきなのか「融合す」べきなのか、原理的に決めることはむずかしい。関東人と関西人は、網野善彦の問題提起にもあったように、かなりちがうところがある。しかし、民族として日本をその二つに分けるべきだとは、まず云われないであろう。また、「国民」というのははっきり分けられている。日本人と韓国人は遺伝学的にかなり近いが、お互いに融合しようというのとは反対のベクトルが強い。これらが「融合し」たり「分かれ」たりしているのは、歴史的経緯に依る。アイヌとそれ以外の「日本人」の関係も、ア・プリオリには決まらないのである。ここには、哲学的思考を誘うところがあるのだ。
 また、被差別者としての女性。生物学的には、男性と女性は似ているところの方が多い、というか大部分である。しかし、歴史的文化的にはそうではない。また、出産は女性にしか可能でないという非対称性がある。セックスの際、挿入するかされるかという非対称性も、心理的には大きなものであろう。なお、生命の発生の観点から云うと、人体のベースは女性であり、男性性はそこから派生する形を取っている。(ちなみに、これは旧約聖書の発想とは逆である。)様々な理由で、歴史的に女性は男性の下位に置かれ、差別されることが多かった。男性と女性の差異を認めることは正しいが、女性になされてきた「差別」はじつはそのような「哲学的」なものではなく、多くはどうしようもなく男性側が身勝手なものなのであった。実際、僕などもそのような身勝手さから自由ではない。凡人はなかなか一朝一夕には変われないものであり、であるからこそ原理原則というものが重要なのであろう。それがフェミニズムである。
 障害者、病人に対する差別。この問題は現代において極めて重要である。それは、「働けないものは生きる権利がない」という誤ったテーゼと関係があるからだ。このテーゼは資本主義と関係がある。これは例えば「新自由主義」と相性がよい。であるから、このテーゼに反対することは、新自由主義に対する抵抗でもある。これらのことより、障害者や病人、また引きこもり、ニートなどが、現代の最前線に位置していることになっているのである。つまりは「アヴァンギャルド」(前衛)なのだ。現代に左翼がいるとすれば、こここそが最も左翼的な場所であるべきことを、もっと左翼は認識すべきであろう。
 本書の内容はまだこれらに留まらない。著者たちは戦っており、本書が刺激的であるのもまさしくそのためなのである。

差別の日本近現代史――包摂と排除のはざまで (岩波現代全書)

差別の日本近現代史――包摂と排除のはざまで (岩波現代全書)

大事なことを忘れていた。本書には沖縄の話もたくさん出てくる。これは沖縄に対する差別だけではなく、さらにもっと広い文脈に接続できるものである。沖縄に関しては、勉強すべきことが無数にあるのを思う。
本書に拠ると、上野千鶴子は「全共闘からわたしが学んだのは、ひとりになること、であった」と述べているそうだ(p.219)。共感せざるを得ない。だからこそ上野は、リブの運動に対してすら批判的な目をもつことができたのである。連帯もいいが、道はそればかりではないであろう。
しかし、本書に索引がないのは残念である。これでは、研究書としての資格を放棄したも同然だ。索引を付けた上でのコストの上昇に耐えられなかったのであろうが。折角なのに、もったいないことである。


何というピアノの美しさ。これぞピリス。