レッシング『エミーリア・ガロッティ/ミス・サラ・サンプソン』/ユーミンを聴いてみる

雨。のち曇。
音楽を聴く。■バッハ:三台のハープシコードのための協奏曲BWV1063(デイヴィット・モロニー他、参照)。たぶん初めて聴く曲だけれど、これはいい曲。■バッハ:カンタータ第124番「われ、わがイエスを離さず」(カール・リヒター参照)。カール・リヒターは堂々と正面から正攻法。これが素晴らしいというか、心が洗われるよう。ひねくれたことばっかり言っていてはいけないなと思わされる。■ベートーヴェン交響曲第五番op.67(ベーム参照)。さすがにベームなのでもちろん水準以上なのだが、自分ならこうは指揮しないなと思ったのでもあった。第一楽章はオーソドックスなのだが、もっと推進力が欲しい。終楽章は逆に、ちょっとやりすぎかも。でもまあ、おもしろかったことはおもしろかった。何だか今日は、何を聴いてもおもしろく聴こえる。■■バッハ:二つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043(メニューイン、フェラス、参照)。最高。時々この演奏が聴きたくなる。

レッシング『エミーリア・ガロッティ/ミス・サラ・サンプソン』読了。悲劇二篇。まず幼稚なことから書いておくと、ハッピーエンドでないのはどうも後味が悪い。「芸術」だから仕方ないけれど。でも、両篇とも罪のない若い女性が、父親の前で死ぬのだよね。「ガロッティ」の方は恥知らずなグァスタッラ公の横恋慕のためだし、「サンプソン」の方は直接の死は毒婦のためだが、遠因は少女を駆け落ちさせてきた相手の、メルフォントのミスだし。どうして彼女たちが死ななければならないのか、よくわからないのである。少なくともギリシア悲劇シェイクスピア悲劇のように、のっぴきならない歯車がギリギリと回っていくような運命が感じられないのだ。それに、死んでいく少女たちは、現代から見ると不自然なくらい無垢すぎはしないか。恋愛感覚も、今とは全然ちがうしね。まあ現代でも通用するのは、「サンプソン」の方の毒婦マーウッドの悪人ぶりであろう。たぶん誰も好きになれないであろうアクの強さが、異彩を放っている。
 なお、訳者解説は学究的な固いものだが、レッシングを考える手助けに大いになった。レッシングの劇は今では古くさいものだが、では現代のテレビドラマや映画に比べ、劣っていて読む価値はないのか、そんなことを考えてみたりする。また、レッシングに直接接続するゲーテならば如何、とかね。

エミーリア・ガロッティ ミス・サラ・サンプソン (岩波文庫)

エミーリア・ガロッティ ミス・サラ・サンプソン (岩波文庫)


昨日松任谷由実について聞いた風なことを書いたので、ちょっと聴いてみた。ネット時代は便利なものである。どうせなので、聴いたことのない『ひこうき雲』を聴いてみた(はいいのだけれど、どうしてアマゾンやiTuneでアルバムのMP3ダウンロードがないのか? CDを買うしかないじゃない。売れないのか?)。どうだったか。あんまり何もないので、驚いたというのが本当のところである。このどこに、才能があるのか。精々、自分の感傷趣味に「ベルベット・イースター」が合ったくらい。って、いくら何でもこれは自分がおかしいのであろう。僕が若い頃、松任谷由実は神様みたいな存在だった。アルバムを出せばすべて恐ろしく売れていた。僕らの時代の集合的無意識を体現していたのは間違いないだろう。それが何もないなんて、あり得ないよね。
 ちょっと調べてみると、『OLIVE』から『DA・DI・DA』あたりまでは僕も聴いている。小学校高学年から高校生くらいまでだろうか。特に好きで聴いていたわけではないが、皆聴いていたし、妹がユーミン好きだったせいもあろう。ユーミンが教祖的だった頃はもう興味がなかった(既に古かった初期の山下達郎大瀧詠一YMOあたりとか、クラシックばかり聴いていた)。その後ユーミンは落ち目になっていき、最盛期の一〇〇分の一くらいしかアルバムが売れなくなったと、風の便りには聞いていた。最近では、宮崎駿の最後の映画に使われたのかな? そのくらいの知識しかない。
 しかし今回聴いてみて、正直言って驚いた。これはもう少しユーミンを聴いてみないといけないかな。それで個人的にも、何かわかるかも知れない。まあ、いつも通り、気が向いたらですけれど。
ひこうき雲

ひこうき雲

蛇足。やはり、アマゾンのレヴューは大絶賛が多いな。「天才」って書いている人も少なくない。このアルバムがいちばんいいってのも多いな。それが正しいのでしょうね。どうして自分はそう聴けないのかな。