笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』

雨。
音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十番K.499(ターリヒQ、参照)。わかりにくい曲。
県図書館。

図書館から借りてきた、笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』読了。三部作完結。本書を読んでいて、結局自分は「おんたこ」も「ドイデ」(マルクスの『ドイツ・イデオロギー』)も、フォイエルバッハも「金毘羅」も、ひっくるめてどうでもいいのだなと思う。では、笙野頼子は読むに値しないのか。いや、全然そんなことはない。本三部作に限らず、結局笙野頼子のキモは、あの奇妙な言語感覚にあるような気がする。それは、正確に云おうとするとむずかしい。例えば、著者の文章は「妄想」だと云われることがあるが、これはたぶんちがう。著者の頭が狂っていて、妄想を書き連ねているのではないのだ。むしろ、正気からそのようなものに限りなく近づいていくため、著者の特異な「言語感覚」、あるいは「言語操作法」があるのではないか。本書では哲学の用語が頻出するが、それはむしろ使われているだけだ。なつかしいポモ(ポスト・モダン)の用語を使えば、著者はシニフィアンを「妄想的に」使って、シニフィエをどんどん希薄化させていくのである。だから、著者の紡ぎだす「妄想」に、妄想本来のもつロジック(妄想にもロジックはある)を読み込んではいけないのではないか。それは著者の仕掛けた地雷のようなものであり、踏んづけて爆死した馬鹿者を笑うのは著者なのである。ただ、そうしてカモフラージュはされているが、一見ルサンチマンにドライブされていてじつは意図的、のように見える著者のそのルサンチマンは、それこそ実際に著者が感じているルサンチマンに他ならないのだろうとは思う。もちろんそれは、文学としてむしろ正統的であろうし、何も悪いことではない。
 別の言い方をしてみると、著者の文学でいちばん危険なところは、その言葉が立ち上がってくるその地点の過激性であろう。ここから言葉が出てくるとき、著者は「発狂」スレスレになると云ってもいい。それは、言葉の意味(シニフィエ)から、近づいていくことはむずかしい。むしろ、音楽を聴くように、それを「体感」するように、読んでみる必要がある。
 ちなみに、本書の小説部分はいま書いたとおりであるが、併録された「種明かし」みたいな文章は、じつに「フツー」の文章なので間違ってはいけない。これは著者が「頭でわかって」書いている文章である。小説部分の「深さ」はここにはないので、それは注意すべきであろう。ちなみに、自分はこの併録された文章をおもしろくは読むけれど、特に感心もしないことは断っておこう。著者が柄谷行人吉本隆明を批判し、東浩紀を罵倒しようが、どうでもいいことである。その意味で、かかる著者の(「文学的」)努力は、特に同情できない。著者のすごいところは、こんなところにはないのである。
 しかしこの三部作、どうして文庫化されないのか? これはおかしくないか。

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録