セリーヌ『なしくずしの死(下)』

晴。
市役所。
L‐F・セリーヌ『なしくずしの死(下)』読了。本書は一見自伝風であるが、著者の少年時代は何不自由のないもので、本書に書かれたような悲惨なものではなかったらしい。だから、本書は「想像力で」書かれたものであるわけだが、それは本書の価値を貶めるものではなく、むしろ逆だろう。最底辺の生活の絶望を、悪口雑言の嵐で描き切っているというものであり、この絶望はいったいどこで仕込まれたものなのかと、つい思ってしまう。最底辺の中でも「愛」がないわけではなく、とりわけ発明家(ほとんど山師)のクルシアルと、その妻の描写には、どうしようもなさが極まって、抒情に達しているようなところがある。しかし、自分はこんな絶望を抱いたことはないわけで、それだけで本書の理想的な読者ではないのかも知れない。
 そういえば、『夜の果てへの旅』よりも先に、こちらを読んでしまったな。『夜…』の方もそのうち読もう。

なしくずしの死〈下〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈下〉 (河出文庫)


Eテレで放送された、坂本龍一「スコラ」ドビュッシー、サティ、ラヴェル編第四回をを観る(録画)。サティらは、従来不協和音だとされていた、七度や九度やの和音を積極的に使ったという話。坂本龍一自身による、「戦場のメリークリスマス」の冒頭の構造分析が貴重だ。それによると、叙情的な感じを与えられるこの曲だが、じつは冒頭から、九度や十一度(!)の和音で組み立てられているというのだ。ポピュラー音楽でもこれらの和音を使うのは稀ではないらしく、なるほど、使い方によっては、既に我々の耳にも馴染み深くなっていることを納得した。もうひとつ「戦メリ」の冒頭だが、さらにサブ・ドミナントから始まっているそうである。こういうの、面白いね。自分で構造分析ができればもっといいのだけれど。

NHKの「クローズアップ現代」が吉田秀和さんを扱った。なかなかよかった。自分自身で考えるということ。他人に付和雷同せず、グールドを評価し、ホロヴィッツの日本公演を「ひびの入った骨董」と評した吉田さん。しかし、3.11の原発事故でも、日本人のイマジネーションが足りなかったのではないかと、思っておられたという。日本は病んでいる、と。番組では、片山杜秀さんが熱弁でした。