渡辺京二『民衆という幻像』

晴。
渡辺京二『民衆という幻像』読了。何もかも面白い。というか、自分のどうしようもない貧しさが痛撃される。著者は、近代日本思想史家として巨大な存在であることはいうまでもないが、本書でほとほと感心したのは、外国文学の読みであった。とりわけフォークナー。氏の外国文学の読解は、欧米の批評家たちのそれの中に置いても、遜色ない第一級の水準だろう。いや、近頃これほど刺激を受けた本はない。それにしても著者は、現代日本を見て、この体たらくにまったく呆れ果てておられるのではないだろうか。著者は二〇〇〇年の段階で、こう書いておられる。「私はそういう時代の崩壊のかたちを予感していた気がする。その予感にせかれて、ある種の共同性の幻を追わずにはおれなかったこの国の民の悲しい衝迫を、書きとどめておきたかったのかもしれない。だが、この国の民は滅びた。民などもはやこの国にはいない。」(p.457)これが、あの「小さきものの死」(本書所収)を書いた人の手になる文章だけに、深刻極まりないのだ。