松浦理英子、笙野頼子『おカルトお毒見定食』/本川達雄『生物学的文明論』

雨。台風さらに接近。
松浦理英子笙野頼子の対談集『おカルトお毒見定食』読了。読む前から「面白いにきまっている」と思ったが、やはりそうだった。この二人が友達ってのは、何ともいいね。

本川達雄『生物学的文明論』読了。中公新書の名著『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者で、「今の時代、こんなことでいいのだろうか」という感じで素朴な文明論を展開しておられるのだが、著者の気持ちはわかるし、応援したいのだけれど、文明論としては何ともいいかねるものになっている。素朴すぎるのだ。結局、複雑なシステムになっている現代社会を論じるのに、今、素朴な「常識」だけでは、何とも仕様のないこと夥しいというしかない。そういうところは本書に枚挙に暇がないから、適当に引用するけれども、例えば「私たちはエネルギーをどんどん使い、あれもこれも次から次へとやる、それがいい、楽しいことだ、と思い込んでいます。でも、じっくり楽しむには、ゆるやかな時間が必要なのではないでしょうか。また、ゆったりボーッとしている時間が間に入るからこそ、その前にやったことを反芻して楽しみをより深く味わい、また次にやることへの期待がふくらんで、実際に行うことが、さらに楽しいものになると思うのですね」(p.199-200)とある。それは皆そう思うでしょう。でも、実際にどうやるか。よく、「経済は二流になっても、ゆったりした暮しができれば」などという人がいるが、経済が二流になると下流(身も蓋もない言葉だけれど)の人にとばっちりがいって、彼らの生活がとても苦しくなってしまう。「エネルギーを使わない」ということは、経済が回らないということだ。資本主義の下では、これはまずいやり方で、資本主義ではじつは「無駄遣い」をした方が皆ハッピーなのである。それはもう、どうしようもない事実なのだ。だから、著者の言っているようなことは、資本主義のオルタナティヴが可能でなければ、とても無理なのだ。そこまでわかって敢て言っているというのなら、そのオルタナティヴをなんとかするしかない。
 こんなことを書くのは残念なことである。ナマコの研究の話は本当に面白かった。学問というのは、もしうまくやれば、資本主義の下にあっても、ユートピアなのかも知れない。

生物学的文明論 (新潮新書)

生物学的文明論 (新潮新書)