こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はベルナルト・ハイティンクロンドン交響楽団NML)。これぞスタンダードという演奏。ハイティンクなら、自分の苦手な作曲家でも聴けるのではないかとふと思った。

Symphony 4

Symphony 4

 
ずっと Ruby/GTK+ で遊んでいました。
obelisk.hatenablog.com

梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』

晴。
とてもおもしろい夢を見た。ここまで印象的な夢はめずらしい。無意識の方が先を行っている気がする。これが指し示すとおりの方向にゆけたらよいのに。もっと見ていたかったが、外出しないといけないので起こされてしまった。

夕方、イオンモール。車の外は 40℃である。さすがに 40℃を超えたのはこの夏でも初めて。何で岐阜ごとき(?)がこんなに暑いのか。
自分の周囲の最大瞬間風速が 2 になったので、梯久美子氏の新刊『原民喜』をイオン内の書店で購入、ドーナツを食いながらフードコートで読む。どうも、ちょっと自分には辛すぎる書物。原民喜という人が繊細・透明で痛々しすぎて、こりゃ却ってこのやかましい環境で読んでいるのが救いかも知れないと思った。原民喜というと、自分は、まず開高さんのエッセイを思い出す。確か、アリューシャン列島の一島に閉じこもって釣りをしながら、原民喜全集を読んでいるというような話だった。開高さんによる感想はここには書かないが、やはり「夏の花」を画期とする論調だったと思う。それから、原民喜全集を出した出版社への言及も覚えている。自分は原民喜の小説は、ふつうに新潮文庫で読んだ。yomunel さんによれば講談社文芸文庫に戦後全小説が入っているらしいから、買ってもよいという気になっている。詩は岩波文庫の全詩集で読んだ。

梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像』読了。いろいろ思いがあって口にすることはむずかしいが…。本書は最初に原民喜の自殺を置き、最後は遠藤周作と祐子嬢との三人での牧歌的な日々を描いて、さほど暗い印象を与えずに終っている。それは確かに救いだ。肯定的な自殺というのも奇妙だが、本書に結論めいたものがあるとすればそれであろう。それに関しては、どういうものか自分にはわからない。ただ、文学研究というものはかかるものを問題にせねばならず、結論めいたものを書かずにはおれない。それが文学といえばそうなのであろう。
 それにしても、これまで原民喜についてどれほど多くのことが書かれたことになるのか! 原自身が知ったら、目をぱちくりもさせるだろうか。まあ彼なら、静かな目をしてそれを許す(?)だろうけれど。自分について書くことで、あなたがおまんまを食べられるのなら、どうぞどうぞとでもいうのだろうか。それすらもいわず、じっと青い空でも見つめているのか。文学に携わるというのは、そういう、言及をされるということなのであろうし。そうして、文学のパンテオンに入り永遠に残される…。
 いずれにせよ、本書を読んでまあよかったと思う。おそらくはこれから本書は絶賛されることであろう。自分には、原民喜さんの生涯はちょっとつらかったが。

やはりわたしは、文学というものがよくわからない気がする。


吉本隆明全集第13巻を読む。読み始めたらおもしろくて止まらないのだが、それをうまく他人に説明できる気がしない。これ、文庫本でも読んでいるのだが、まったく何も覚えていないのである。バタイユ論もブランショ論もじつにおもしろい。でもこれ、真理の叙述みたいなものとまったくちがいますね。吉本さん自身が、うまく説明できなくて四苦八苦しておられる。こちらも、うーん、そうなのか、とか、どうもその論理はよくわからんなとか、まあそんな風に(自分は)読んでいる。ブランショ論など、「死の観念性」みたいな話から、何かサド裁判を経てカフカへ行ってしまい、最後円環を描いてブランショに戻ってくるのだが、結局何だかわからない。それは吉本さんがいけないのか、自分の頭が悪いのか、しかしそんなことをはどうでもいいのだ。吉本さんは一時期大変に崇拝され、いわば思想界のヘゲモンであったが、本質的には静かに、ゆっくり読まれるべき人かも知れないと思う。まあ、いまや若い人(というか我々の世代もそうだが)がまったく読まないのはよく承知していますが。それに、吉本さんを読んでも学術論文が書けるわけでもないし。百年後くらいに、誰かが発掘することを祈ろう。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの幻想曲とフーガ BWV906、前奏曲 BWV921、幻想曲 BWV1121 で、ピアノはアンドレア・パドーヴァ(NML)。BWV906 が何だか聴きたかった。BWV921 と BWV1121 は初めて聴く。

Complete Fantasias

Complete Fantasias

パーセルの四声のソナタ第三番、第四番で、演奏はパーセル・クァルテット(NMLCD)。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻第十九番 BWV864〜第二十四番 BWV869 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはシュテファン・ヴラダー、指揮はバリー・ワーズワースNML)。何という爽快な「皇帝」! 第一楽章がすばらしくフレッシュだ。ヴラダーというピアニストは初めて聴くが、自分より少し年長であるというから、もはやそう若いことはない。若い頃にベートーヴェン国際ピアノコンクールで優勝しており、この演奏は彼が二十代前半のときに録音されたものである。じつにみずみずしいピアノで、指揮もその傾向を助長している印象だ。第一楽章が特に感銘を受けたところで、はじけるようなピアノである。第二楽章、終楽章は自分の好みとしては少し重厚さが足りなくて、ちょっと物足りない感じ。ただ、いかにも新しい才能というのがビンビン出ていて、好ましい。なかなかこういう演奏というのは、やろうとしてできるものではないだろう。おそらくピアニストとしても、いつまでもこうはいかなかったのではないか知らん。
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」/ピアノ・ソナタ第15番「田園」

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」/ピアノ・ソナタ第15番「田園」

 

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十一番 K.467 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。いい曲だな。■ラヴェル「鏡」で、ピアノは阿部裕之(NML)。ラヴェルの演奏史とでもいうものがあるとすれば、それに特筆すべき名演。この曲がラヴェルの最高傑作のひとつであることを確信させる。特に第三曲「海原の小舟」の幻想的な美しさは譬えようもない。演奏者が日本人であり、このディスクがマイナーレーベルから出ているせいで知られないということがもしあるならば、あまりにも惜しい。大袈裟なことはあまり言いたくないが、演奏芸術として最高級のレヴェルに属すると思う。

阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

Windows 7 上の VMwareMac OS Snow Leopard を動かしているのだが、さすがに古くていろいろ問題がある。Safari も例えばこのブログを正確に表示することができない。それと、VMware で使うコア数を 1 にしていたらさすがに遅すぎるので、2 に引き上げて使うことにした。これなら一応 Safari も(問題があるとはいえ)ネットを閲覧できるレヴェルの速さになる。Chrome だと使っていると致命的なエラーを起こす。さすがに VMware ではちょっと無理か。Ubuntu とかだと結構仮想マシンで使っている人も見かけるのだが、Mac となるとキビシイですね。

それと Mac はキーボードも独特だし、マシンパワーをある程度要求してくるので、しっかり使いたかったら素直に Mac 本体を買った方がよいと思う。Mac はもちろんよいのだけれど、自分の好みの Linux ディストリビューションを使うスキルのある人は、むしろ Linux の方が使いやすいくらいなのではないか。それから Linux をメインで使うとわかるけれど、Linuxフリーソフトが充実している。仕事でどうしても必要というのでなければ、WindowsMac の有名ソフトにさほど劣らないものが、それも簡単にインストールできるようになっている。ここでは Linux Mint のパッケージ・インストーラーの画像を上げておこう。
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いま自分がどうしても Windows が必要というと、iTune ですね。iPad を使っているので、どうしても iTune がないと困るのだ。Linux でも一応 Wine を使って iTune が動くという話があるが、あまり推奨されていない。Mac はじつは Linux の一種なのだけれど、アップル社はオープンソースの富を還元せずに囲い込んでいますね。

「俺は壊れていて、そういう壊れている人間が生きていてよい理由が思いつかない。死ぬべきだけれど、死ぬのもこわいから生きている」というのが、自分の愛読するあるブログの中のひとの実感である。今日のエントリでも、「日本がダメになって皆んなが少ないリソースを奪い合っている現状で、生産性のないやつに税金を投入する価値がないといわれると、それは少なくとも正直な意見なのではないか。正義の人がいくら立派なことを言っても、死ぬ物狂いになっている人間の本音はそこだ」とあった(自分で勝手に発言をまとめたので、もしかしたらニュアンスがちがっているかも知れない)。僕は思うが、この人はものすごく高潔である。僕はこの人ほど経済的に追い詰められていないことを前提でいうのだが、自分ははっきりと役立たずのカスだけれど、死のうとか特に思わない。他人に迷惑をかけているのかも知れないが、それもあまり気にならない。カスで大勢の他人に多少迷惑をかけようが、それでだらだら生きていくと思う。ただしそれはいま自分の心に余裕があるせいで、自尊心もまだ失われていないから、そういうヌルいことが言えるのかも知れない。それでもやはり、そのブログ主のひとは高潔であり、あえていえば人徳があると思う。それゆえに、ブログも読まれているし、自分も愛読するほどだ。正直言って、そのひとが高潔さを発揮して自裁してしまったら、自分はおそらくひどくかなしくなると思う。杉田水脈のような(たぶん)クズを擁護するのもいいけれど、もう少し高潔さを緩めても、それでも依然として高潔だと思うので、何とか生きていてほしいものだと遠くから思っている。

自分は金のないほうが人間は高潔であるなどとはまったく思わないが(金はあった方がよい)、それでも金のないところに不思議と心やさしい人間がいるという、いやそういうことって稀にあるのだけれど、ただの偶然だろうか。心を病んでいる人間にまともな人が多いのも、ほとんど事実に思える。名前だけ「健常者」で、どうしようもないクズがたくさんいるということもまたある。いや、おとぎ話ですよ、夢を見ているんだ、このかなしい人は、とかね。はららら。

宇波彰『ラカン的思考』 / 津村記久子『とにかくうちに帰ります』

曇。
寝坊。

起きてイオン。すごい人混み。

昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・黒糖+ブレンドコーヒー。宇波彰ラカン本を読む。もはやポストモダン哲学の流行は去り、昨年ひっそりと出版されたらしい本書であり、何故なのか図書館にあったので借りてきたものである。ひさしぶりにポストモダン哲学のタームで書かれた本を読むことになったが、意外とおもしろい。ポストモダン哲学というのは、東さんのいうとおり「詩のように」読むべきであるが、それはポストモダン哲学の対象の特殊性によるものである。ポストモダン哲学が語ろうという対象は、言語の限界領域に近い。ひさしぶりにポモに接してみて、ポモはここまで切り込んでいたのかと、ちょっと驚かされるところがあった。もっとも、著者の意図はわたしにはほとんどどうでもよい。「主体の消失」ひとつを取っても、それはある意味では当り前のことであり、ことさら仰々しく言い立ててみたり、相変わらずのデカルト批判をしてみたり、ちょっとウンザリさせられないこともない。それにしても西洋哲学におけるデカルトの存在感はほとんど異常であり、西洋の哲学者とでも名が付こう人間などはまず例外なくデカルト批判をせねば始まらないかのようである。わたしはもちろん、「主体」にせよ「存在」にせよ、西洋人的な関心はまったくない。ただ、「存在の根源的な苦痛性」とでもいうべきものであるなら関心があるが、誰もそんなことは気にしやしない。
 しかし、ラカンか。自分は当然のように『エクリ』は読んでいない。『セミネール』の翻訳はそこそこ読んだくらいである。『エクリ』はまともな訳者の手でちくま学芸文庫あたりに入れてほしいものである。まあしかし、ラカンの断片だけでも結構考えるべきことはある。結局、みな断片しか読んでいないようにすら見えるしな。例えば「欲望」というのは自分にはいまだによくわかった気がしない。却って、「欲望とは他者の欲望である」と言ってしまえば、ラクになるというものだ。いずれにせよ、「欲望」の作動原理をいくら説明されても、まだ自分の中で納得がいくようなものではないのだ。なぜなら、それは本質的に「無意識」と関係があるから。ちなみに、現在にあっては「無意識」という概念はたちまち忘れられ、そんなものがあったのかということになっていると思われるが、それゆえに優れた「知性」が不合理性を識閾下に押し込めたままで、幼稚さというものからちっとも逃れられないのである。現代でも、そんなものである。

さても、本書は「むずかしい」本なのであろうし、ムズカシイ本バカリ読ンデマスネーというところなのであろうが、余計なお世話である。いったい「むずかしい」から何だというのか。

図書館から借りてきた、宇波彰ラカン的思考』読了。段々残念な本になっていく展開だな。ネットをよく知りもせずいいかげんなことを言う老害といわれても仕方があるまい。いまの若い人たちは、これよりは遥かにマシである。「ネットでは自分の気に入る情報しかみない。」まあそういう人たちが多数いるのは確かかも知れないが、そんなところを掘っても大したものなど出てこないのだ。たんなる老人の埒もないお説教とどうちがうのか。まったくどうでもいい。ベンヤミンとか言い出すあたりからおかしくなっていくな。まったく、クズがこういう本を読むと疲れる(というか脱力する)。大学教授って何なのか。

ラカン的思考

ラカン的思考

せっかくポモを擁護しようと思ったのに、とんだ藪蛇だった。

津村記久子『とにかくうちに帰ります』読了。短篇集。これはおもしろかった! どれもサラリーマン(とサラリーウーマン?)の話なのだが、自分はサラリーマンというものをやったことがないので、興味津々(?)で読みました。「会社で仕事をする」って、こんな感じなのか知らん。どうも仕事をするというか、半ば人間関係の処理をしているという風に見えるのだけれど、どうなのでしょう。まったく自分は世間というものを知らないね。こんな自分が会社づとめしたら、同僚にどう思われるものか、そら恐ろしいものがある。もちろん働いたことはあるのだが、働くのはなかなかしんどいことだった。それでもある時期までは仕事は楽しいものだったが、次第にひどいことになっていって、最後の方はもう修行だと思って淡々とやっていた。自分には向いていない仕事だったと思う。でも、それくらいしかやる仕事がなかった。いまも、もう仕事はあまりしたくない。
 どの短篇もおもしろかったけれど、例えば表題作はちょっと着眼点が秀逸だった。どこか、埋立地か何かのオフィスで働いている人が、大雨で電車もバスも不通になり、歩いて帰宅するのにほとんど「遭難」しそうになるというお話だったが、まったくマッターホルンでもなし、現代の東京(だろうな)で「遭難」しかねないという状況を、作ってみせたのがすごい。そしてここでも、雨の中での人間関係の話である。まあ、でも小説などみんな人間関係の話といえばそうなので、何も言ったことにならないか。オフィスの、サラリーマンの人間関係。いや、わたしにはまったく未知の世界で、やはりどうしようもなく自分は世間知らずであると、痛感せざるを得ないですね。どうも、自分は人と付き合うのが苦手な人間になったようである。かつてはそうでもなかったと思うのだが。
 いやまあね、皆んな善人でもないけれど、悪人でもないですよ。それはわかるけれど、さて、それは出発点にすぎない。いまの勤め人を描いた小説ってのは、自分にはおもしろいのだな。「人生いかに生くべきか」とかから限りなく遠くて、とにかく何とか目の前の仕事が片付いて、お給料が出て、上司と同僚はまずまずの人間で、で夕食にビールの一杯でも飲めればいいのだろうか。いや、バカなこと言っているなとお笑いください。皆んなえらいな。

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

何か本書では結婚というのは絶望的な感じなのだけれど、そういうものなの? まあ結婚というのは自分はもはやあきらめているが、うーん、で何だ、書くことが思い付かない。皆さんはちゃんと結婚して、幸せになって下さい。あなたのこれからの幸福をお祈りいたしております。

よく「上司にウンザリしたくなかったら自分で起業せよ」という人が多くて、まあ確かにそれはまちがいないのだが、ではそうしたところで自分が部下をウンザリさせるってのはどうなのかね。ってマジどうでもいいですが。

ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第三番 BWV1068 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」op.123 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティク、モンテヴェルディ合唱団(NML)。

Missa Solemnis

Missa Solemnis

 
「ミサ・ソレムニス」がしんどかったので昼まで寝てしまった。って何をやっておるのか…。


ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』読了。青柳正規訳。碩学の珠玉のような小品が優れた散文によって訳された、近年ではなかなか見られなくなったような香り高い書物である。隊商都市(キャラヴァン・シティ)というのは、古代中東におけるキャラヴァン・サライ(隊商宿)を中心に発達した都市を指していわれる言葉である。本書で紹介されている隊商都市は、ペトラ、ジェラシュ、パルミュラ、ドゥラの四つであるが、自分はそのどれをも知らなかった。たぶん少なからぬ人が自分と同じだと思うが、それはさらに重要であった筈のアレッポダマスクスなどが後世(現代)まで重要都市として存続しているため、考古学的な資料が土の下に埋もれてしまっており、発掘などがむずかしいからである。逆にいうと、本書で紹介されている隊商都市は、歴史的には既に役目を終えたものなのだ。ゆえに却って、我々の「ロマン」を喚起する要素を多分にもっている。著者は現地の調査を行っており学術的な記述が主であるが、一般人にも魅力的な書物になっているのは、そういう「ロマンティックな」要素を排除していないこともあるだろう。いやなに、特に誇張せずとも、現実の遺跡の描写・考察が既におもしろいのだ。収録された写真を見ても、例えばハリウッド映画がいかにこのようなイメージを好んで使ったか、当然という気もしてくる。二〜三世紀のローマ帝国の知識があると、さらにおもしろく読めると思う。それにしても、本書を読んでいるとパルティアに関する知識がいかに空白になっているのか、驚くほどで、現在の学問ではそのあたりはどうなっているのだろうか。実際、本書の対象がパルティア学に貢献しているのを読者は見る筈である。
 また、上にも少し書いたが、本書の文章は自分には優れたものと思える。柔らかくてみずみずしい日本語であり、このような文章は残念ながらいまの学者からはほとんど失われてしまった。この文章を読むこと自体が楽しみのひとつであったと、忘れずに記しておこう。特に文学的な文体というわけではなく、学術的散文として、である。訳者の本としては、中公新書の『トリマルキオの饗宴』は読んだ筈である。あまりはっきり覚えていないので、そのうち再読できたらいいな。

隊商都市 (ちくま学芸文庫)

隊商都市 (ちくま学芸文庫)

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』 / 柳田国男『都市と農村』

日曜日。曇。
昨晩は遅くまでプログラミングのブログを書いていたので、今朝は寝坊。よく寝坊するな。
睡眠の後始末。

NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第四番 BWV1069 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番 op.58 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はカール・ベームNMLCD)。■ベリオの「Serenata I」で、フルートはセヴェリーノ・ガッゼローニ、指揮はピエール・ブーレーズNMLCD)。■プーランクのフルート・ソナタで、フルートは浮ヶ谷順子 、ピアノは元井美幸(NML)。

Music for Flute & Piano

Music for Flute & Piano

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのミサ・プレヴィス ト長調 K.49 で、指揮はヘルベルト・ケーゲル(NMLCD)。こんなすばらしい曲があったのだな。■マーラーの「亡き子をしのぶ歌」で、ソプラノはジェシー・ノーマン、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NMLCD)。


真面目に真摯にまちがったことをいう人にはどう対したらよいのか。ってまあ、僕は相手が真面目だろうが真摯だろうがあまり頓着しないのだが。それに、いい人だけどまちがっているかも知れないが、まちがっているけれどいい人なのだ。ちなみにわたくしは河合隼雄先生の、わたしは本当のことなど絶対に言いませんという文句が好きである。まさにこれでしょう。

河合先生は中沢さんに、あなたみたいに本当のことばかり言っていると、しまいには十字架にかけられてしまいますよと仰っていたらしい。中沢さんもその言を拳々服膺したとのことである。まあ、下らん時代だからね。桑原桑原。

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』読了。本当は精緻に構成された細部にまで気を留めて読むべきなのだろうが、そこまでの余裕はなかった。結局そこいらが自分の小説読みの限界なのだろう。しかし、それらは措いても、強力で徹底的に虚無的なラテン・アメリカの世界。生にも死にも何の意味もなく、虫けらのように人が死んでいく。キリスト教がこの世界に何を付け加えたのか、考えてみるのもおもしろいだろう。神父までが虚無と倦怠と罪の意識に苛まれるのだ。これがスーザン・ソンタグのいう二十世紀最大の小説のひとつというのは、あらためて不思議な感じがする。二十世紀もまた、人を幸せにしなかったのかも知れない。さて、世界がインターネット化した今世紀はどうなのだろうか。我々は豚のように生き延びているだけだと言ったら、豚に失礼なのであるまいか。そんな気もする。

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

 
柳田国男『都市と農村』読了。柳田の文章は自分の理解力を超えているが、もっと読んでいきたいと思っている。しかし、何故柳田の文章は自分の頭に入ってこないのだろう。まあ能力不足ということなのであろうが。本書も、ただ目を通したというだけだ。
都市と農村 (岩波文庫)

都市と農村 (岩波文庫)

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第二番 BWV1067、第四番 BWV1069 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NMLCD)。

大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・セイボリーパイ フランクフルト+ブレンドコーヒー386円。セコい言い草なんですけれど、これ安くないですか。Haskell 本を読む。
行きも帰りもパラパラ降っていた。

チコちゃんに叱られる!」おもしろいな。下らんというか。

ある種の人間的な魅力とか才能とかはかなり早い子供のときに決まっていて、大人になってからではどうしようもないという事実。だから何ですが。少なくともすべて努力で何とかなるとかは間違った認識で、有害ですね。性格も変えられない。でも、考え方みたいなのは変えられる。それから、意外かも知れないけれど、精神の柔軟性みたいなものも獲得可能。これは一種の技術です。

米屋。肉屋。
34℃くらいでだいぶ涼しい。しかし、これがふつうの夏の暑さなのだよな。39℃とかを体験すると、5度もちがうと体感も相当にちがう。明らかにラクだ。

ほとんど最後のミニトマト

渡辺昌寛『つくって学ぶプログラミング言語 RubyによるScheme処理系の実装』を読む。おもしろい。自分にはちょうど適度なむずかしさという感じがする。かなり考えないとわからないけれど、わかると「うまく作ってあるなー」と感心する。Scheme の実装なのだけれど、リストを Ruby の配列でそのまま表現しているので、パースが要らない。無名関数と let 文の実装。そして、無名関数はクロージャを実装している。なんとクロージャですよ。もちろん再帰も可能。すごいな。ここまでで「純粋関数型言語」が実装できてしまうのだ。なお、「純粋関数型言語」だと代入はなしなのですね(再帰は特殊な let 文を使って実現する)。ふーむ。さらに読む。