ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以後の神』

晴。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのミサ曲第十六番「戴冠式ミサ」 K.317 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、オランダ室内合唱団、18世紀オーケストラNML)。合唱の音色がちょっと暗い感じがするのだけれど、気のせいかな。もっとも、合唱についてはよく知らないのだけれど。

モーツァルト:戴冠ミサ

モーツァルト:戴冠ミサ

 
昨晩、澁澤龍彦の『サド侯爵 あるいは城と牢獄』を読んでいたのだが、圧倒的ですね、澁澤は。澁澤など中高生向けという意見をよく聞くが、わたしなどはおっさんになっても読んでいる。レティフ・ド・ラ・ブルトンヌとか、恥ずかしながら読んだことがないのだけれど、読みたくなった。って入手できるのか知らん。ゲーテの『イタリア紀行』も読み返したくなった。学生のとき、ドイツ語の勉強に冒頭部分を岩波文庫版と対比して読んだこともあったな。まあ、もちろんドイツ語はものにならなかったわけだが。二十代前半であれのおもしろさがどれだけわかったか疑問なのだけれど、何か熱中していたのだな。澁澤も、ゲーテの度を越したよろこびようが楽しいみたいなことを言っているけれど、ゲーテにせよスタンダールにせよ、イタリアにやられた人たちだ(澁澤はそれにサドを付け加えている)。イタリアには何かあるらしいのである。
サド侯爵 あるいは城と牢獄 (河出文庫)

サド侯爵 あるいは城と牢獄 (河出文庫)

 

■大澤壽人(1907-1953)のピアノ協奏曲第三番「神風協奏曲」で、ピアノはエカテリーナ・サランツェヴァ、指揮はドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団NML)。この演奏を聴くのは三度目か四度目だと思うが、これまでは何もわかっていなかったことがよくわかった。自分なりに多少わかったところがあるように思うが、それにしても自分の予想を遥かに超えていた。この曲はプロコフィエフと比較されることがあるが、自分はそれはやや皮相な見方で、むしろ敢えていえばフランスのモダニストたちに近いと思う。特に、こういうことを言った人があるか知らないが、第二楽章はラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章へのオマージュではあるまいか。大澤壽人のすばらしいところでもあり、理解するにむずかしいのはその独創性で、基本はヨーロッパ的モダニズムなのであるが、東洋的な要素も、またアメリカ的な要素も流れ込んでいて、しかもそれらが溶け合って不思議な独自性を醸すに至っている。『天才作曲家 大澤壽人』にもあるが、大澤が作曲を学んでいたのは古典的な調性システムが崩壊する時点で、それが音楽語法の自由度を高め、大澤に都合がよかったことは明らかにあるだろう。それにしても、日本的ともいいたい素材が完全にヨーロッパ・モダニズムと融合しているのは驚くべきで、これを同時代の日本人が理解するのはきわめてむずかしかったことだろう。その意味でも、大澤が帰国せず、ヨーロッパに留まっていたらという「歴史の if」は、考えても詮無いことであるがつい考えてしまうところではないか。
 それから、これは指摘されているのを見たが、大澤のオーケストレーション管弦楽法)の見事さは驚異的なレヴェルで、現在に至るまでこれを凌駕する日本人作曲家は出ていないし、西洋の一流音楽家の中に置いてもまったく輝きを失わない。色彩感が豊かで、洒落ているのだ。まったく、このレヴェルの作曲家が埋もれていたということが、本当にあるのだ。なお蛇足であるが、この曲の表題である「神風協奏曲」というのは神風特別攻撃隊とは関係がなく、朝日新聞社の「神風号」のことである。しかし、自分はこの表題はなかった方があるいはよかったのではないかと思う。もしかしたら、本格的なピアノ協奏曲というその性格を遮蔽してしまうかも知れないと思うので。とにかく、大澤の主要全作品を聴いてみたいものだと強く感じる。それも、そのうち可能にならないとはいえまい。いや、そうなってほしいものだ。

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

演奏であるが、なかなか悪くはないけれど、充分でもない。エラソーで申し訳ないが、演奏家としては二線級であろう。まだまだ別様の表現はあり得ると思う。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー485円。図書館から借りてきた、ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以後の神』読了。ヨーナスが日本の読書家にどれほど知られているかは知らないが、一般にはグノーシス思想の研究者とされているように思う。けれども実際にはその奥がある人で、もともとはハイデガーに就いていた哲学徒だったりと、晩年は哲学者を以てみずから任じていた。『責任という原理』はドイツ本国で広く読まれ、邦訳もされていて自分は目を通したことがある。骨太の、読むに値する思想家である。ただ、わたしのレヴェルを超えているのも事実で、本書もすらすらわかるとはいえなかったのだが、いたずらに難解を気取る物書きとは反対の人で、たんにわたしの読解力が劣るにすぎない。
 本書の内容は題名から推察されるところもあるであろうが、ヨーナスがユダヤ教徒であるのがポイントである。ただ、本書には表題作以外に二篇の論文が収められているけれど、その「神」はほとんどキリスト教のそれ以外の何物でもないように見える。いくらユダヤ教キリスト教、そしてイスラム教の「神」が同じであるとはいえ、不思議な感じがする。ヨーナスはもちろん神を信ずるのであるが、「神の存在証明」はカント以降完全に不可能になったとはっきり認めており、自然科学にもかなりのレヴェルで通じていることは明らかだ(実際、晩年は生命倫理を構築する代表的な哲学者のひとりであった)。本書の内容の紹介は自分の手に余るが、様々な思考を誘発してくれる得難い書物である。しかしヨーナスのレヴェルですら、神に一種の人格を付与してしまうところがあるのが西洋人だなあと思う。自分はそういうのは苦手なのであるが、一方で「神」を導入したことにより、「超越性」というものが精神に宿ることになり、これこそがまさに我々の理解のむずかしいところだ。西洋人にとって「超越性」は、(無)意識のかなり深いレヴェルにアクセスする通路になっている。まさしくこれこそが、西洋の本質であるといいたい気がする。我々東洋人にとって、抽象的な「超越性」というものはなかなかに理解することがむずかしいものだ。しかしこれからは、日本人にもある種の「超越性」が必要になるのかも知れない。本書を読んで、そんなことをとりとめもなく考えたりした。

アウシュヴィッツ以後の神 (叢書・ウニベルシタス)

アウシュヴィッツ以後の神 (叢書・ウニベルシタス)

 
カルコスに寄る。図を書いたり計算をしたりするのに使うメモ帳がいっぱいになったので、新しく買う。他についでに新書本を買ってみたり。


ツイッターを見ていて田中秀臣先生が韓国問題について強硬的なことを書いておられるのを読んだが、木村幹先生とかを参照して仰っているのかねえ。僕は田中先生は人間的には大キライだが、学問はそれなりにリスペクトしていたのだけれど、何でも経済学、特にゲーム理論で切れると思っている感じで、今回のことはちょっと違和感がある。僕も別に韓国は好きでもないが、韓国政府は日本にそれほど関心がなく、例の記者会見でも NHK が無理に突っ込まねば日本の話題は出なかったというのが事実でしょう。韓国がいちばん気にしているのはアメリカだという専門家の、それも根拠がある判断を非専門家が否定するなら、それなりの手続きが必要なのではないか。まあ、木村先生がクズだというなら仕方がないが、自分にはそうとも見えないけれど。
 それから、いわゆる「レーダー波照射問題」でも、専門家の意見を読んでいると細部はなかなかむずかしく、もちろん自衛隊の出している資料におかしなところはないけれども、当然ながら P-1 は最新鋭の稼働中の兵器で、機密保持のため情報はぼかさざるを得なくなっている(例えば日本側の映像も P-1 のシステムのものではないらしい*1。そんなことは機密の公開になるのであり得ないそうだ)。いわゆる「レーダー波の照射」があったのは事実であるが、それがどのようなもの(様々なレヴェルがある)かは機密の中で、少なくとも韓国軍の火器管制システム(というか端的にいって砲)は動いておらず、また、照射が危険なレヴェルのものであったら最悪の場合自動的に(自衛隊側からの)攻撃がなされるそうで(いっておくが、もちろん自分が知っているわけではない、専門家の指摘による)*2、攻撃の意志を示したものではあり得なかった*3。また、韓国側の提出した映像と説明は(へんな音楽は付いているが)それなりに練られたもので、日本の一部のマスコミが言っている(らしい)ように、簡単にウソとは決めつけられないようである*4。いっておくが、自分は日本がまちがっていて韓国が正しいとか言っているわけではなく、韓国側だってバカではないということだ。基本的に自衛隊の資料が正しくても、その尻馬に乗っているのが碌でもない連中なのが恥ずかしいだけである。

ああ、知ったかぶりを書いた。恥ずかしい中二病だなあ。アホくさくてつい正義を主張してしまった。最低である。
言っておくけれど、自分は知ったかぶりを書いただけで、この「レーダー波照射問題」にそれほど興味はない。とにかく自分は何も知らないので、正しいと判断したことを受け売りで書いているだけである。だから、まちがっていても別に不思議ではない。しかし、皆さんの知っていることもせいぜいこの程度のことでしょう。バカみたいにヒートアップすべきではないと思うだけである。ホント、むしろどうでもいいことなのだから。あるいは、これに対する日本人の反応に危機感を感じないでもないが、もうほとんどどうしようもない。病膏肓に入っている。

先日更新されたあるブログを読んでいて、白洲正子の能や小津安二郎の演技指導について語られたあと、「自分を『無』にすること。」というフレーズが掲げられていたが、あるいは少々ちがうのではないかと思った。いや、ブログ主はもちろんおわかりなのだろうが、「無」というのすらひとつの実体化なのである。梅若実がいう「あなたが『考えまいとおもうこと』がたたっているのですよ」ですら本来無駄なことで、もちろん梅若は仏教でいう「対機説法」として、つまり相手を見てそういっただけのことであろう。これもまた「方便」にすぎないが、「無」というよりはたんに存在しているだけ、存在の充実があるだけとでもいう方が、まだマシなのかも知れない。西洋人はよく東洋に「無」を見るが、それはもちろん陳腐な実体化にすぎないのである。だから、能が「無」などというもので切ることができる、そんな浅はかなものであるとは自分は信じられないし、実際にそうではないと確信している。まあしかし、世の人は能など一度も見たことのない田舎者=わたくしのいうことを信ずるにはまったく及ばない。もちろん、小津安二郎も知らないのだ、この男は。

ちなみに、仏教でいう「無」は「何も考えない、考えないということも考えない」というようなものとはあまり関係がない。むしろ普通は、存在の本来の絶対無分節性を指していう言葉で、きちんとしたコノーテーションのある語である。もっとも、それだけではなく様々に用いられてもいるので、上のような「誤解」(?)も無理はないのだが。また、仏教と能ではまたちがうものでもあるかも知れない。わたしは能の「型」というのは、臨済禅における公案のようなものではないかと推測する。だから、「型」は最終的に壊されなければならないのではないか。「型を演じているだけ」というのは、これも対機説法だと思う。実際の梅若は、既に「型」のことすら忘れ去っていた筈である。

いや、わたくしがごとき未熟者のいうべきことではなかったかも知れない。「にわかほど語りたがる。」

*1:おそらくは、P-1 から市販のビデオカメラで撮影したものと推測されている。

*2:これは自分の誤読。自動的に稼働するのは ECM による電子戦。

*3:専門家の判断だと、おそらく P-1 の ECM(電子対抗装置)は稼働しておらず、また P-1 は緊急回避行動をおこなっていない。これは P-1 側が危険であると判断していない傍証になる。

*4:少し細かい話になるが、韓国側の主張では攻撃用の STIR-180 は使用しておらず、使用したのは MW-08(Cバンド三次元電探)であるとのそれで一貫しており、それが事実かどうかは別として、少なくとも「発言の矛盾」はない。日本側の発表からいっても、その主張を否定する証拠はまったくない(あるいは発表されていない)。とにかく、P-1 は攻撃される危険性を感じていなかった可能性が高い。