多和田葉子『球形時間』

晴。
蝉時雨がやかましすぎる。「時雨」なんていうレヴェルではない。新幹線訴訟レヴェルである。ギャーって。でも、ウチの近所で蝉が鳴いているのは、他に一軒のみ。そこもたくさん樹がある家なのだ(ってウチが大邸宅みたいなんだけど、そういうわけではもちろんない。昔の百姓家屋というだけ)。神社でも鳴いていない。蝉はどこへ行っちゃったんだろう。ああそうか、ウチへか。
早朝出勤。人並みに午前中仕事。
昨晩寝る前に、『胡桃の中の世界』を読み返した。澁澤龍彦は久しぶり。もしかしたら読めないかもと危惧していたが、まったくそんなことはなかった。種村季弘さんではないが、誰かが澁澤龍彦を受け継がないといけない。それは中沢さんの言う、「想像力の全領域」を自らの内に秘める者としてである。浅田彰さんは澁澤龍彦を「軽蔑してやるべき」と発言したが、浅田さんの言いたいことはよくわかるけれど、浅田さん自身、想像力を駆使できない人であるのは明らかだ。もちろん浅田さんはイメージ自体を「貧しい」とする人であり、その意味で首尾一貫しているのであるが、これに関しては貧しいのは浅田さんの方である(ちなみに僕は浅田彰さんをとてもリスペクトしているので、為念)。まあ、僕などはそれ以前のレヴェルであります。すごい若者とか、出てこないであろうか。

図書館から借りてきた、多和田葉子『球形時間』読了。さて、どう感想を書いたものかな。途中までは、現代の空疎さを空疎さを以て描いた、なかなか不愉快な小説という感じで、この空疎さは芸風なのかな等と思っていたのだが、最後にはこの小説がリアリズムでなく、幻想的な落ちの付いた小説ということで、安心できてしまった。果たしてこれでよかったのだろうか。これがリアリズムであるとすれば、現代の若者たちを頭だけで描こうとして、登場人物たちに対して愛の無い、不愉快な小説ということで、それなりのインパクトがあったのだが、なーんだ、ファンタジーかということになってしまえば、(先ほども書いたが)上手く落ちがついてめでたしとなってしまう。本書に描かれたような会話は今の現実の若い子たちの中ではあり得ないし、彼ら彼女らの空疎さはこんなものではないのだが(登場人物たちは三〇年前の若者たちという印象)、まあファンタジーからしょうがないか、という感じ。まだ多和田葉子氏の小説世界には馴染みがないので、はっきりしたことは云えないけれども。まあ、文学音痴の云うことですから、あんまり真に受けないほうがいいと思います。ホモの男の子たちの飲尿シーンなどは、これは新鮮だとは思った。僕はボーイズ・ラブの世界(腐女子やおいの世界)はよく知らないけれども。

球形時間

球形時間

今の若い子たちの空虚というのは、淡々としたものです。LINE を何時間もやるのも You Tube を延々と見続けるのも、葛藤などとは何の関係もない。ただダラーッとやっているだけ。殆ど「悟って」いるかのよう。そこから始めないと。
ネットを見てみると、本書は意外と若い人たちに支持されているな。わかっていないのは自分なのかも知れない。しかし彼ら彼女ら、自分のことを書かれているとは思わないのかな。自分だけはこんな空疎ではないのだということか。そうだとすれば、著者の意図はやはり伝わっていないとは云えないだろうか。