アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』

晴。
もっと早く起きないといけない。


バッハのパルティータ第一番 BWV825。この動画には二人分の演奏が入っているが、ラファウ・ブレハッチのそれの方を聴いた。速めのテンポで、きびきびとした演奏。


シベリウスのヴァイオリン協奏曲 op.47 で、ヴァイオリンは諏訪内晶子、指揮はウラディーミル・アシュケナージ、フィルハーモニア管。うーん、この曲には自分は勝手な思い入れがありすぎるのだな。諏訪内さんのヴァイオリンは相変わらず美音。しかし終楽章など、これではもの足りないのだ。魂を燃やして演奏して欲しいのだ。また、アシュケナージの指揮は自分にはちょっと生ぬるい。ちょっと勝手すぎる聴き方かも知れない。


フォーレの九つの前奏曲 op.103 で、ピアノはジャン=フィリップ・コラール。

夜、県図書館。吉本さんの全集や井筒先生の著作集などを借りる。それから仕事。

ネットを見ていると pro 安倍と con 安倍で截然と分かれていて、お互いに対話の余地がない。僕は con の方だが、幅広い視野をもった合理的な人は pro の方に多い印象である。con の頑なさ視野の狭さが、その敗因のひとつであろう。それにしても、日本も二極化してきたのだなとぼんやりと思う。お互いに相手の気持ちが思いやれない二極化、つまりは日本人の分断である。諸外国同様、その流れは止められないのかも知れない。いずれにせよ、正直言ってどうでもよいというか、どうしようもないという気持ちも強いのだが。わたくしの老害化。はらほろひれ。死亡。

いやそれ、まちがっているだろう。バカだな。

アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』読了。本書は日本では一般的に『時間と自由』という題名で知られてきたが、この翻訳の題名の方が実際のフランス語の題名の訳として忠実である。さて、これまで自分は本書を数種類の訳で読んできて、今回読んだ訳も再読であるが、というのはそれくらい何回も読んだというまあ言い訳なのであるけれども、今回読んで非常にむずかしかったし、また一方で非常に愉快だった。こんなにむずかしかったのだなと思ったのだが、かつて読んできたときはそうむずかしくも思わなかった筈である。実際、ベルクソンが秀才たちに好まれない傾向にあるのは、ベルクソンがちっともむずかしく見えないからであろうと自分は踏んでいる。で、唐突だが、ベルクソンは当時の流行の哲学にほとんど媚を売ることなく、こつこつと自分独自の思索を続けていった人だった。どうしてそれが可能であったか。それは、ベルクソンは若い時に物理学の検討をして(ベルクソンは最初科学哲学者になるつもりだった)、そこでひとつの「発見」をしたからである。何かしっかりしたものを「つかんだ」のだ。それを追って、一生を終えたのである。それは何か。実際にいうだけなら簡単なことである。それは「持続」だ。なーんだ、そんなことか、であろうか。それさえわかっていれば、「簡単にベルクソンを料理できる」。で、秀才は簡単に料理してオシマイなのである。
 今回自分には本書は難解であったが、それは自分なりに「持続」をつかんでいるからである。自分にはそれは、音楽の謎にかかわっている。しかし、ベルクソンが「持続」の解明に一生をかけたように、「持続」の関わる領域はとんでもなく広い。自分にとっての本書の難解さは、そこにかかわる。例えば「自由」も「持続」にかかわっており、本書ではその関係がスケッチされている。その探求は思考を逆回転させるような作業を必然的に要求するので、なかなかすっと自分のこととして納得するのがむずかしいのである。
 本書を読んでいて、ベルクソンが「誤解」されるのも無理はないなと思った。ベルクソンは物理学がはっきり言って気に入らないのである。ところで、ベルクソン量子力学をどう思っていたのか。量子力学の発展は、ベルクソンの思索の後期にあたるのではないかと思う。自分はベルクソン量子力学に言及した例を知らないのだが、もちろんこれは無知な自分のことであるから意味はない。どうして自分が量子力学というかといえば、量子力学における時間の取り扱いがとても奇妙だからである。面倒なので一例だけ挙げるが、例えば厳密な意味で量子力学に「運動」は存在しない。これは、それだけでベルクソンが興味をもって然るべき事実だと思われるのだが。ただ、ベルクソンは自分で納得しないと決してものを書かなかった人なので、建設中の量子力学に言及する筈がなかったかも知れない。
 なんだか雑然と思いつきだけで書いた。乱文失礼。(AM00:53)

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)