晴。
NMLで音楽を聴く。■ショパンのポロネーズ第四番 op.40-2、舟歌 op.60、ロンド op.16 で、ピアノはベラ・ダヴィドヴィチ(NML)。ベラ・ダヴィドヴィチ(1928-、現在97歳)はアゼルバイジャン出身のピアニストで、現在は米国籍をもつ。特にショパンの演奏で知られるという。

■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はクラウディオ・アバド、ローマRAI交響楽団(NML)。(AI君によれば)1967年12月30日、ローマRAIオーディトリアムにおける(モノラル)ライブ録音。ポリーニ25歳、六十年代の録音とは! テープのヒスノイズがひどいが、ポリーニのチタン鋼すら切断できそうな、超硬度のきわめて美しいピアノが、見事に捉えられている。DGでの七十年代のベームとの超名演にも勝るほどの、鮮烈な「皇帝」だ。正直、聴いていて震えが止まらないほど。
若き盟友・アバドの伴奏もじつに悪くないが、どうしてもポリーニのピアノに惹きつけられてしまうのはしかたがないだろう。それにしても、ポリーニは二十代、自分のピアノを磨くため、沈黙して孜々と研鑽を積んだといわれていたが、これのどこに、研鑽の余地があるというのだろうか。神業ではないか! ここで、ピアノ演奏の歴史は終わった、終着点に至ったともいいたいほどである。まさに浅田さんが、「最後のピアニスト」と呼んだとおりだ。
なお、この演奏は YouTube でも聴けるが、是非昨年リマスターされたエディションで聴いてみて欲しい。ピアノの音がまったくちがうので。正直、YouTube のは「残骸」って感じ。NMLでは 2.14 に配信が開始されている。

家正面の樋を掃除する。あと、腐(くた)った木蓮の花を掃き集めて、箕に入れて運び捨てる。
先日長浜の荒物屋で買った庭箒の使い勝手がよくて、掃除好きな老母がよろこんでいた笑。

ダッチアイリス(別名オランダアヤメ)らしい。

ムラサキカタバミ。

カイドウ(海棠)。

家裏のシャガ(著莪)。

シロヤマブキ。

オニタビラコ(鬼田平子)。
空中でずーっとヒバリの声がしていた。
昼。
飯を食いながらたまに録画で NHK の「小さな旅」という 25分の番組を見ることがあるのだが、いつもなかなかおもしろい。ほとんどが田舎、過疎地の話で、また、出てくる人たちは農業や漁業、林業に携わる年配の方というか、お年寄りが多い。わたしのように郊外の周縁部に住んでいる人間からすると、随分と鄙びた感じがして、それゆえに教えられることが少なくないのである。
さっき観ていたのは、「人生 海あり山あり ~三重県 尾鷲市九鬼町~」という回だった。「九鬼」というのは、たぶん九鬼水軍のそれであろう。過疎の小さな漁村であるが、ブリの定置網漁で、それなりに食べていけるようだった。
山も近く、坂の村であった。都会からやってきて、複雑で狭い階段坂の途中で小さな本屋さんをやっている女性。かつては金融やアパレルの仕事をしていたという。また、山を整備し、案内する女性。その自然の豊かさが SNS などで知られるようになり、山へ来る人が増えてきたそうだ。彼女も、元はたぶん都会で、つらい暮らしをしていたという。
たぶん、メディアや SNS には、都会と、かかる「自然豊かな過疎地」はある。他方、わたしの住むような、郊外に近い、中間的で凡庸な精神的荒蕪地は、あまり出てこず、可視化されていないかなと、思う。だから、どうというわけでは、ないが。

イオンモール各務原の1Fメインストリート、2.24 に撮ったもの。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ドら抹茶 つぶあん華ホイップ+ブレンドコーヒー638円。
図書館から借りてきた、マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(邦訳増補版2025、堀之内出版)を興が乗ったので、難解でもある 200ページを一気に読了。コーヒーを二回もおかわりして、二時間かけて読んだ。
春休みのフードコートはごった返す小中高生たちで轟音のようにやかましく、わたしはこうした中で読書するのがかなーり好きである。一時間ほど隣のテーブルは寿がきやのラーメンを食ういかれぽんちの男女四人組の高校生で、中でも赤の薄手のセーター(?)にミニスカの女子の、ツナ缶やネイルのどうでもいい話(うるさい)を聞くともなく、フィッシャーの「サプライサイド経済学」についての文章を読むのは、つとめて笑いをこらえる体験そのものだった笑。わたしはこれを、全面的に肯定するものである。
しかし、本質的にきわめてマジメで、9年前に鬱で自殺してしまった、わたしと同年生まれのフィッシャーを、こんな風に読んでいいものかと、わたしはちょっと反省するね。
『改修され建物自体も文化遺産となった発電所には、ミケランジェロのダビデ像、ピカソのゲルニカ、ピンク・フロイドのブタの風船といった様々な文化遺産が保管されている。(中略)この一世代、子供がまったく生まれていないのだ。「誰も見に来る人々がいなくなったら、これらすべてに何の意味がある?」とセオはたずねる。次世代に伝えるためだというアリバイは、ここではもう通用しない。次世代はもう来ないのだから。「それについては考えないようにしているよ。」』(p.8)
『新しいものを無くして文化はどれほど生き残ることができるのか? 若者たちが驚きを産み出せなくなったとき、その先にはいったい何があるのか?』(p.12-13)
フィッシャーがポピュラー音楽のカリスマ的批評家であったがゆえに、この実感は重い感じがする。本書では映画やポピュラー音楽から大量の引用がなされているが、まさに映画も音楽もいまや閉域から出ることができず、完全な不毛であるという、強烈な実感が本書全体を覆っている。このような現実の総体を、フィッシャーは「資本主義リアリズム」と名づけているのだと思う。
本書でフィッシャーは、「再帰的無能感」(p.60)という、印象的な言葉を使っている。そんなにむずかしいことではなく、「我々は、行動してもムダ、世界を変えることなど不可能だとわかっているがゆえに、やはり行動しない」という、ほぼ我々全員の陥っている円環を、彼はそう呼んでいるのである。このループを断ち切ることはむずかしく、ゆえに、「希望がなくても行動はできる」といったグレタさんは、現代の賢者なのだ。
じつに、我々の持つことのむずかしいのは、モチベーション(の維持)ではあるまいか。やってもムダとわかっていることをやっていると、そのうち徒労感が我々を苛(さいな)み、行動を不可能にする。やってもムダなことをするモチベーションを、いかに維持するか、持続可能性を保つか、それだと思う。実際、フィッシャーはみずから命を絶ってしまった。
あと、フィッシャーと「加速主義」の問題。本書の「解説」にはフィッシャーの「加速主義」についてかなりの記述があるが、たぶん本書に、「加速主義」の語はなかったように思う(自信はないが)。わたしは加速主義を採らない、それは、たんなる「破滅への加速」であるように、わたしには思えるから。我々は(まず不可能ではあるが)引き返さねばならないと、わたしは考える。
――いずれにせよ、フィッシャーの「加速主義」は、あまり気にしなくてもいいとわたしは思う。フィッシャーは、そんな「イデオロギー」のみに、回収されてしまうようなタマではない。加速主義を否定するわたしにも、充分読めるし、じつのところ、本書をわたしは一気読みしてしまったのだから。
しかし、フィッシャーのような人は、どんどん少なくなっている。酸素は、ますます希薄になっており、我々はそれこそ「再帰的無能感」という一種のニヒリズムから、脱出しようとすらしなくなってきている。世界は幻想にぶ厚く覆われ、残るのは、ヘドニズム(快楽主義)だけではあるまいか。いかに、脳内麻薬(脳内快楽物質)を分泌させるか、という。
夜。
『勇者パーティを追い出された器用貧乏』(2026)第12話(最終話)まで観る。ダラダラ観るにはまあまあおもしろかったけど、それくらいしかいうことのない「なろう」アニメ。コンテンツ消費だな。

