こともなし

曇。
ホテルのバーか何かで、店の人がなんとか金を使わせようとお愛想をいっているのに、こちらは口からでまかせのエーカゲンなことを口八丁手八丁でしゃべりまくり、結局一銭も使わずに出てくる夢を見る。店の人の凍りついたような笑みが気の毒だった。まったく痛快な軽薄さで、わたしには確かにこういうところがある。昔からおしゃべり君だったしな。いずれにせよ、強く印象的な夢で、なかなか深かった。

NML で音楽を聴く。■シューベルトの三つのピアノ曲 D946 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニNML)。第二曲の第二中間部が頭に浮かんでくるので、自分がかつて最初に接したポリーニの演奏で聴いてみる。完璧主義者・ポリーニポリーニの完璧主義というのは、冷たい、機械のような演奏というのとは全然ちがう。ここには個人的な思い入れのようなものはかけらもなく、普遍的な一貫したパースペクティブの下で演奏されているが、ひどく感動的で、その第二曲の第二中間部には深く動かされて、目に少し涙が滲んだくらいである。しかし、この完璧さには、先がない。モダンの究極の到達点であり、この向こうには、このやり方では一切の表現行為が成立しなくなってしまう。実際歴史は、この後個人的な思い入れ、エモーションを再び強調する方向へ向かったし、それはそれで正しいのだ。わたしは、わたしの若い頃に流行した「歴史の終わり」という議論をちょっと思い出す。あれは、ヘーゲル的な歴史理念の最終段階に人類は到達したという、まあだいぶ単純な議論であったが、それはそれなりに正しかったわけだし、その意味で現在が「ポストモダン」(死語)であるのはまちがいがない。さらにいえば、トランピズム(フェイクニュース!)などは「歴史の終わり」の「その後」の、いわば「世界の終滅」以降の現象であるだろうし、ポリティカル・コレクトネスなども盾の裏側で、同じ問題圏に属することになるのかも知れない。それは、ヘーゲル的なリニアーな歴史観の終焉をも意味する。いまの「論壇」(とかいうものがあるとして)などは、世界的にもそう整理されてしまうところがあるのだろう。

 
洗濯。
ヒバリが鳴いている。

何かむずかしいことを考えてブログに書こうと思っていたのだが、買い物メモを作っているうちにどうでもよくなった。

理念というものは強力で、いま若い人たちの生活は、民主主義、自由、平等、アイデンティティ・ポリティクス、ダイバーシティ、科学主義などといった単純な理念によって規定されている。そしてそのような少数の単純な理念でじつはすべての問題が矛盾なくきれいに解けてしまわないがゆえに、彼ら彼女らの苦しみは我々のかつての素朴な思春期の平穏さに比べて大きいのだ。理念は決定的に強力であり、一方で簡単に欺瞞的にもまたなるということをよくわきまえていたのが吉本さんだった。あの人は理念のその両面をよく知っていて、徹底的に骨肉化していたがゆえに、ひとつは本物だったといえると思う。

スーパー。入り口に繋がれた賢い犬ちゃんが、よろよろと中へ入っていく飼い主のおばあさんを心配そうに見ていた。ここのスーパーはおばあさん率が高い。マックスバリュとかだと、客の平均年齢が低いのだけれどな。若い奥さんたち(?)って感じ。

昼食はスーパーのパックのお寿司。今日から NHK で火野さんの「こころ旅」2022年春の旅だ。

ごろごろ。
流動的知性に出会うということ。

夕飯は塩ブリを焼いたものと、ぬた。ぬたってわかるかな。ウチのワケギで作った。さっと茹でて、ツナと辛子味噌和えにする。ふつうはぬたというと酢味噌和えのことらしい。

夜。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはフリードリヒ・グルダNML)。1967年録音。さすがはグルダ吉田秀和さんはグルダをしてベートーヴェン弾きと見做していたと覚えている。

モーツァルトのピアノ協奏曲第九番 K.271 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。これまでモーツァルトのピアノ協奏曲全集というと、バレンボイムが若い頃 EMI に録音したものが最高だと思っていたが、このゲザ・アンダのもそれに並ぶ全集になる予感。じつにすばらしい。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第八番 K.310 で、ピアノはヴラド・ペルルミュテール(NMLCD)。よい。
ブラームスの交響曲第二番(佐渡裕)