こともなし

雨。

いつも朝に風呂の浴槽を洗っているのであるが、今朝プログラミングのコードについてぼーっと考えながら蛇口を回したら、向きが反対だったので頭からシャワーの水をかぶってしまった。まぬけ笑

しかし日本語の環境にいると、本当に気候変動問題って存在するのかって思えてくるくらいだな。脱炭素? それがどーしたのって感じ。切迫感がまるでない。いまでも「鎖国」されてるんだなと痛感する。SDGsくらいではお話にならない。
 ちなみに、これは環境問題というだけでなく、経済の問題でもある。いま、両者は強くリンクし始めているということだ。だから、ヨーロッパでは強い政治的イシューになっているのである。

昼から肉屋とスーパー。雨で寒い。

『資本主義だけ残った』を読み始める。第二章まで読了。300ページ足らずの比較的薄い本であるが、いきなりグイグイと惹き込まれる。第一章は導入で、第二章の「リベラル能力資本主義」というのは、おおよそ民主主義先進国の話というところか。もちろん日本も含まれるが、記述での日本の存在感はほぼ0である。というのはどうでもよくて、このリベラル能力資本主義というのが、貧乏人には絶望的なんだな。それこそ「親ガチャ」が効率よく機能して、富めるものはますます富み、実質的に新たな「階級社会」(と著者がいっているわけではない)が出現していて、階級間の流動性が乏しく、しかもそれが0でないところがミソで、機会の均等性はかなり保証されているところがスキがない。現実はといえば高給取りどうしが結婚し、生まれた子供は早くから高い教育を受け、エリート校に通い、(コミュニケーション能力も含めた)高いスキルを身につける。それは実力であり、彼ら彼女らは高給職でよく働き、資産を運用し、いってみれば非の打ちどころのない「成功した」生涯を送るのだ。そして、それはあくまで実力なのであることを、強調しておこう! だから文句のつけようがない、それは「親ガチャ」という一言で表現できる。もちろん本書でそんな表現が使われているわけはないのであり、日本語のすばらしさ笑を教えてくれる言葉だ。本書には全然関係のない話だが、わたしは「親ガチャ」って言葉、最初に聞いたときはむかついたけれど、いまではよくぞ言ったとマジで感心する。おそるべし、日本の子供たち、って感じだ。実力ってのは、金と環境で身につけることができるのである。
 いや、めちゃくちゃな要約ですね。実際はもっとまじめな本である。わたしは第二章を読んで、あまりの救いのなさに思わず笑い声をあげてしまった。著者はまじめなので、事態に対抗する処方箋もいくつか挙げてある。そこは、本文に就かれたい。わたしは本書の高度な社会学的記述を読みながら、「生きることの意味」といったあるいは無意味な文句が頭に浮かんできて、そんな感じで本書を読み進めていった。我々名もなく生き、名もなく死んでいく凡人にとって、この新たな「階級社会」の下層民=我々とは、何か、と。まったく、自分勝手な読み方であろう。

 
夜。
『資本主義だけ残った』第三章「政治的資本主義」まで読む。政治的資本主義とは一党独裁国家の資本主義といってもいいかも知れない。しかし、この章で問題にされているのは、ぶっちゃけ中国である。どうして中国は一党独裁の政治体制を以て、これほど発展できたのか。将来性はどうか。わたしには正直言ってさほど興味のない話なのであるが、一般には本書の読みどころになるのだろうか。この章で、腐敗というものが必ずしも避けるべきものではなく扱われているのが興味深かった。著者には、世界が西洋の価値観で覆われている現在が、将来もきっとこのまま続くとは思われていない。それを考えると、日本はよかれ悪しかれ「名誉白人」ならぬ、東洋の「名誉西洋国」であるとみずから見做しているのだなあと思う。はは。

なお、本書では「共産主義」をして、マルクス主義の言い分とはちがい、後進国家が高度な資本主義国家にキャッチアップするための一段階と見做されているのが特徴だ。これが著者の独創なのかわたしは知らないが、説得的な主張であるように思われる。