こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番 op.19 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団NML)。小澤とアルゲリッチの最新録音である。高齢の二人は以前ほどの力強さはもはやないが、それでもさすがに豊かだ。この(精神の)貧しい時代に、このわたしのような貧しい人間にとって豊かさとは何だろうと思わずにはいられなかった。別にわたしはもとから豊かというわけではないけれども、とにかくいまや毎日索然としながら目覚める日々を送っている。さても、いまの人たちはこの演奏が「わかる」のかしら。で、わかってどうだというのか。もちろん、豊かであるに越したことはないのはいうまでもない。それとも、ただたんにわたしが貧しいだけなのだろうか。それならば問題ないのであるが。

 
午前中、甥っ子の勉強を見る。頑張ってやってるなと思う。わたしは普段は物理も数学も使わないので、エンジンがかかってくるまではミスだらけだ(笑)。
しかし、若い人と接していると気分が明るくなるな。もちろん若い世代も手放しで礼賛できないのだけれど、無限の未来があるというだけでそれは希望なのだと感じる。世代が繋がっていくというのは、すばらしい。

ブリテン弦楽四重奏曲第三番 op.94 で、演奏はアウリン四重奏団(NMLCD)。■リゲティの練習曲集第二巻で、ピアノはエリカ・ハーゼ(NMLCD)。すごい。


「自分の頭で考えよう」という空疎な文句が最近至るところで唱えられるが、あれはいったい何なのだろうな。もちろんお題目としてはどこも間違っていない。自分の頭で考える、大いに結構である。わたしはといえば、このところぼーっとして、何くれとなく空想する。それがまだまだ未熟である証拠であることは、いうまでもない。何もなければ空想もない。
 林達夫という人は辛辣なので、こんなことを書いている。「何のメチエももたず、ただあたまの運転の法則だけに頼っているからこんなことになるのである。」(「開店休業の必要」)「こんなこと」というのは、ここでは画期的なデカルト選集が出ても「デカルト読みのデカルト知らず」が続々発生しているだけという事態のことだが、まあそれに限った話でないので、まったく「あたまの運転の法則」とはよく言ったものである。つまり、考えているようで、考えさせられているだけだ、ということだ。しかし、凡人(頭がよくたって凡人は凡人である)とは、そんなものではなかろうか。林達夫のレヴェルのハードルは、わたしは非常に高いような気がする。
 ところで、この「開店休業の必要」という文章は小林秀雄批判でもあるわけであるが、批判はこの文章のマクラみたいなものだともいえる。まあ、「狭い文壇人」と小林を一刀両断しているけれども。さても林達夫には気の利いた文句がたくさんあるので、引用してわたしはものがわかっていますよとアリバイを作っておくには非常に便利だ。林達夫のある時期からの文章はまさに林自身のアリバイ作りのように機能しているが、林がものを書かなくなったのも、そういうむなしい作業と自分の文章が見做されるのにうんざりしたからでもあろうか。いや、あんまりひねくれたことを書いているな。下らん感じ。
 澁澤龍彦は、林がものを書かなくなったのは、この「開店休業」をずっと続けているだけだと書いていた筈であるが、ま、確かに、それが妥当な解釈であろう。澁澤が林に見ていたのは、「庭」の精神だった。そう、林の上の文章にも、考える人間は手作業でもするがよいというような文句があったが、それからわたしは林の庭仕事を連想するのである。


日没前、散歩。





側溝の穴へ入っていきました(笑)。
ツバメの飛翔がすばらしくていつも賛嘆しているのだが、わたしのコンデジ程度では撮れません。昔の特急に「つばめ」って名前を付けた気持ちがよくわかる。皆さん御存知だと思うけれど、野球チームの「スワローズ」は、特急つばめから来ているのですね。ヤクルト球団はもとは国鉄(いまのJR)だったのだ。


今日のこのブログの文章を読み返していると、曖昧で非論理的な悪文の典型だなと思う。書きながら、書いたものが次の文章を誘うという書き方なので、思いつきをテキトーに書き連ねているだけだ。こういう文章はかつては日本語の悪文の典型だったのだが、いまや多くの日本人が論理的な文章が書けるようになった。ま、しかし、わたしは開き直っているところもある(笑)。所詮、文章はリニアーにしか書けないが、思考は必ずしもリニアーなものではない。それを無理にリニアーにすると、何かが失われてしまうこともある。もちろん、論理的に書ければそれに越したことはないわけであるが。


風呂を出たあと、明かりをつけたまま寝てしまう。