雲多し。
朝食時に飲む牛乳がなくなっているのに気づかなかった。なので、いつもコーヒー牛乳に使うネスレのゴールドブレンドをブラックで飲むが、いまひとつですね。自室で飲むのもクノールの(インスタント)コーンスープにする。そうそう、トマトジュースも切れているのだよなあ、ぼーっとしていて買い忘れている。
ふとんに潜ってアガンベンの『ホモ・サケル』、その第二部「ホモ・サケル」を読む。
現代において「聖性」は存在するか。存在する。聖性は、一種の非合理性のあらわれである(その非合理性が、合理的な諸要素にさらに還元できるか、わたしは知らない)。現代において言語的知性があまりにも精密に、生の全体を覆い尽くし、生を管理しようとしているが(それはひとつの意思に突き動かされているかのようである)、どれほど世界を精緻に言語化しても、生の根底にある「非合理性」を消し去ることはできず、却って現在、そのような非合理性が世界を覆う「合理性の網」の隙間から強く噴出してきている。そのひとつとして、「聖性」も我々に認知されている。
そのような事実は、じつに凡庸であり、当たり前のことである。しかし、そんな当たり前のことが、意外と忘れられているものだ。世界をすべて(強引に)合理性で抑え込み、非合理性の噴出を阻止しようなどということは、どだい無理な話である。
というか、わたしは「無理であってほしい」、と望んでいるのだろう。生命がすべて「合理化された自動機械」に貧困化された世界はわたしには恐ろしいが、知性はそれを(あまり考えることもなく)推し進めようとしているわけだ。
アガンベンは、聖性をエロティシズムと結びつけたバタイユを(ベンヤミンを通じて)批判している。しかし、そんなバタイユの(幼稚な)理論は、現在でも(残念ながら?)有効ではないだろうか。フェミニズムの勝利以降、エロティシズムの理論的な姿は大きく変わった。現代のジェンダー理論は、エロティシズムにおける聖性(非合理性)も、葬り去ろうとしている。それは時代の必然なのだ。
非合理性、カオスは生命の根源なのではないのだろうか? そんなことは、当たり前のようにわたしには思えるが、わたしはまちがっているのだろうか? なんて、いまさらの問いであるが。
図書館から借りてきた、ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』(原著1995、邦訳2003)読了。
#
スーパー。三倍ポイントの日。ここで、あ、冬至なんだ!ってなる。まったく忘れていた。カボチャは買ったが、柚子は買わない。ま、冬至の慣行はわたしにとっては形骸化した伝統であるが、往々にして伝統とは形骸であり、またしかし、形式が内実を産むということもあるだろう。
って、そんなことはどうでもいいよね。正月用品を買う。丹波の黒豆は 200g で 1000円以上するものが、いまだにちゃんと売っている。あと、日高昆布、瓶詰めの栗、田作り、かんぴょうなど。
昼食の半田めんを湯だめうどんにする。温かいうどんもおいしいものだな。