ザミャーチン『われら』

曇。
変な夢を見る。建築業者の現場がいやにリアルに(?)出てきた。何だろう。仲間がいて、舞台は九州だったし。

昨晩は『シェーンベルク音楽論選』を読んで寝た。シェーンベルクの顔写真を見たら、口許が歪んでいた。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十一番 op.53 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。いわゆる「ワルトシュタイン」。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリームボール+ポン・デ・シュガーボール+ブレンドコーヒー351円。消費増税以外に値上げもされているようだな。ザミャーチン『われら』読了。うん、これはおもしろかった。最後はアンハッピーエンドというかバッドエンドというかなのかな。本書の描写は主人公の手記という体裁もあって、正直言って話の正確なところはわかりにくい。たぶん、オリジナルは読みにくい文章なのだろうと思うが、そこは翻訳なので却って読みやすいのかも。オーウェルの『1984』とかハックスリの『すばらしい新世界』と並ぶディストピア小説の傑作とされているが、いまは現実世界がディストピア小説化してきているので、ふつうに読めてしまうところが現在だなあと思う。SF でもマンガでもアニメでも、もはや「ディストピア小説」的なものはめずらしくもあるまいし、それらのコンテンツの作り手自体、現状をそれほど深刻に受け留めてもいないような気がする。そして、その「ディストピア小説」的な世界が現実では粛々と進行していくと。我々は本当に不思議な時代を生きているのだ。皮肉というべきなのか、ザミャーチンにおいては小説作法は比較的稚拙かも知れないが、書き手は遥かに深刻なのだと思う。それはオーウェルやハックスリにあっても同様であろう。我々が既に「自由」を望んでいないのは明らかだ。それも無意識的に。むしろ管理された「リスク0の人生」を望んでいる。

われら (光文社古典新訳文庫)

われら (光文社古典新訳文庫)

 
帰りにカルコスへ寄る。ちょっとむずかし目の本を二冊買う。
棚を見ていておやと思ったのは、『中井久夫との対話』という本。出版は去年らしいが、いままで気づかなかった。しばらく中身を見て、結局買わなかったのだが、そのうち購入するやも知れない。わたしは中井久夫さんについては、専門家向けの高価な翻訳書以外は忠実な読者であったが、最近は読んでいない。天に唾することになるが、わたしは中井久夫さんの読者層というのがあまり好きでないのである。この人は大変に高度な知性の持ち主であるが、非常に深い、冥いところにその根がある人だ。それがわからずに読んでいる人が、結構多いのではないかと思っている。まあ、自分の読みが正しいのかは知らない。エッセイ集(といってよいのか知らないが)を読み返してみようか知らん。しかし、中井久夫を神秘化すると叱られるでしょうね、わたしは。

■アレッサンドロ・マルチェッロのオーボエ協奏曲ニ短調で、オーボエセリーヌ・モワネ、指揮はヴェルナー・エールハルト、ラルテ・デル・モンドNMLCD)。■バッハのオーボエ・ダモーレ協奏曲 BWV1055 で、オーボエ・ダモーレはセリーヌ・モワネ、指揮はヴェルナー・エールハルト、ラルテ・デル・モンドNMLCD)。オーボエ・ダモーレの音色が魅力的。

マーラー交響曲第五番で、指揮はエリアフ・インバル東京都交響楽団NML)。2013年のライブ録音。最後拍手があってライブ録音とわかってマジかよと思った。インバル得意のマーラーだが、都響すごいですね。少し音量を絞り気味で聴いたのだが、アダージェットの絹織物のようなテクスチャーとか、見事で感銘を受けた。インバルはわたしが高校生、クラシック音楽の聴き始めの頃フランクフルト放送交響楽団(当時)とのマーラーの録音で突然出てきたのをよく覚えていて、わたしは名古屋であったそのコンビでのまさにこの曲の演奏会にも行ったので、思い出深い。この演奏を聴くと、インバルは昔とそれほど変っていないようにも感じるけれど、さてそれが正しいのかどうか。こういうのは、とても客観的に聴くわけにはいかないのである。

マーラー:交響曲第5番

マーラー:交響曲第5番