西原理恵子『パーマネント野ばら』/宮元啓一『仏教誕生』

曇時々晴。霙。
大垣。吉野家岐阜長森店にて昼食。牛丼並+卵430円。
BOOK OFF大垣バイパス店。14冊+CD13枚。誰かがまとめて売ったらしく、ナクソスやEMIのシブいCDがあった。釣果。以下ナクソス・レーベルのCDである。タリス(c.1505-1585)。パイジェッロ(1740-1816)。ヴァレーズ(1883-1965)。グレツキ(1933-)。カゼッラ(1883-1947)。シマノフスキ(1882-1937)。ツェムリンスキー(1871-1942)。ブゾーニ(1866-1924)。ブリッジ(1879-1941)。ルトスワフスキ(1913-1994)。以下EMIレーベルのCD。エルガー。ヘンツェ(1926-)。ペンデレツキ(1933-)。

西原理恵子『パーマネント野ばら』読了。西原がまだほとんど無名な頃、これは天才だと見抜いたのが自分のささやかな自慢なのだが、しかし、これは傑作すぎるだろう。陳腐な言い方になるが、純文学以上に純文学しているマンガだ。それも、純文学臭を一切感じさせずに。サブカルを突き抜けている。

パーマネント野ばら (新潮文庫)

パーマネント野ばら (新潮文庫)

宮元啓一『仏教誕生』読了。これは最悪の本だ。冒頭に、本書は「インドという土壌との関連を絶えず意識しながら、つまり、古代インド思想史の一側面という観点をあらわにしながら仏教の始まりを見ようとするもの」(p.3)で、「ひたすら仏教に焦点を絞った」本ではないことが宣言される。これは実は、著者が宗教を内在的に把握できていないという事実を糊塗する、予防線となっている。著者は宗教の内在的な把握ができていないため、仏典の解釈が滅茶苦茶になっている。正直言ってレヴェルが低すぎるので、いちいち指摘する気も起きないが、例えば著者は「禅定の最高境地である三昧」を、「心がまったく不動になった状態」(p.100)と注しているけれども、これはまったく理解がなっていない。同様の文章に、禅定をして「雑念という心作用そのものを、静かな精神集中によって沈静化しようとする行法である」(p.188)と述べているところもある。しかし、鏡は一点の曇もなく磨き上げるのではない。割らねばならないのだ。ましてや、「仏教が最終の目標とするところは、そして釈尊その人が到達したところは、生存欲を断つことだということになる」(p.148)などとなると、哀れとしか云いようがない。
 そして、さらに言えば、本書には、学問的に正しいとする驕りと共に、宗教を内在的に理解できない者の、宗教を生きるものに対するルサンチマンがあると思う。本書を読んでいると、嫌な気分になってくるのはそこである。それから、もうひとつ揚げ足取りをしておけば、「ゲーデル不完全性定理をまつまでもなく、かれ[釈尊]は、完全な理論体系の構築など不可能だということを直感的に知り尽くしていた」(p.176)とあるが、これは著者がゲーデル不完全性定理について、ブルーバックス並の理解もないことを露呈しているのは明らかだろう。不完全性定理は、完全な理論体系が不可能であるなどとは言ってない(現在構築されている数学体系は、いまのところ無矛盾であり、その意味で「完全」である)。もちろんそうではなく、公理系の内部に、その公理系では証明(あるいは反証)できない定理の存在を原理的に排除できない、ということである。仏教とは何の関係もない。
 著者にいわせると、釈迦は「経験論とニヒリズムに裏打ちされたプラグマティスト」(p.93)だそうである。無明。おそろしいことである。

仏教誕生 (ちくま新書)

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