内藤淳『進化倫理学入門』

雨。

内藤淳『進化倫理学入門』読了。本書では、人間の行動は必ず当人の利益にかなうよう選択される、と述べられる。もちろんこれは、特にめずらしい意見でも何でもない。昔から主張されてきた、凡庸ともいえる説である。本書(あるいは「進化倫理学」)の肝は、当人の利益とは当人の「快」であり、人間は進化論的に、「快」なる行動を選択し、「不快」なる行動を忌避してきた、と一見「科学的に」主張される点にある。しかし、これは疑似科学であり、とうてい科学的な命題とは云えない。少なくとも、「快」を唯物論的に定義することは不可欠だろう。「188円と218円の牛乳で安い方を買う」(p.37)「快」と、「われわれは、血縁者や特定の異性に対して愛情を抱き、そこで相手のために行動する」(p.67)ときに感じる「快」が同じだといわれても、そう簡単には「諾」といえないのではないか。
 まあしかし、こう真面目に反論するような本でもないとは思う。言い古されたことに科学的な意匠をまぶしてみせただけの、ただそれだけの本である。倫理を唯物論的に基礎づけるというのは、それほど無価値な試みではないとは思うが、本書のようなナイーヴな仕方では、何の意味もない。倫理学というのは歴史ある複雑な学問であり、まずは最低限押さえるところは押さえてからやってほしい。
 それから、本書にも関係があると思うので書いておくが、例えば「ミーム・マシンとしての私」とかなど、いかにも「科学」っぽいが実は「空想(法螺)」なのだということは、弁えておいてほしい。確かに重要な「空想」というのもあるが、それにしても「空想」は「空想」で他のものではない、ということが忘れられすぎている。

進化倫理学入門 (光文社新書)

進化倫理学入門 (光文社新書)