名古屋のシネマスコーレにて「手に魂を込め、歩いてみれば」(2025)を観る

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ジョルジェ・エネスクのピアノ五重奏曲 イ短調 op.29 で、演奏はシューベルト・アンサンブル(NML)。2013年の録音。
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サン=サーンスのピアノ四重奏曲 変ロ長調 op.41 で、演奏はシューベルト・アンサンブル(NML)。2016年の録音。
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脱資本主義は脱成長からはじまる――江原慶『資本主義はなぜ限界なのか』【ちくま新書】/書評・斎藤幸平|webちくま
『成長と破壊。資本主義のもとでは、二つは完全に両立する。資本を増やすことは、人間の幸福や環境の持続可能性とは、直接の関係がないからである。むしろ、安い労働力と安い自然を搾り取る方が資本は成長するのだ。もちろん、ここに、女性が担ってきたケア労働へのただ乗りを加えてもいい。要するに、資本主義とは、公正な競争のもとで、イノベーションが生活を便利で豊かにしてくれる社会ではない。むしろ、しばしば暴力的に富を奪い、無償で労働を収奪するのが資本主義である。』
 資本主義のオルタナティブは存在しない。我々は、資本主義の下でやっていくしかない。しかし、上でいわれていることは、まったくの真実である。我々は、「脱成長」の方向へ、というか、もっとマイルドでもっとコントロールの利いた方向へ、資本主義を「変質」させねばならない。確かに、「神の見えざる手」の効果はすばらしいが、それが資本の非倫理的な側面を enpower している。問題は、「資本」の思慮を欠いた、已むことのない効率化と拡大への傾向である。これが、まったくコントロールできておらず、容認できないレヴェルでの「不正」と「弱者からの収奪」を生んでいる。かんたんにいうと、金さえ儲かれば、なにをやってもいいというところが、資本主義にはあり、また、国家が「強い国家」のため、それを容認する傾向がある。
 柄谷行人のいったとおり、現在、資本の運動と国家は切り離せないようになっている。
 
いちばんの問題は、資本を回転させるため、我々は「消費者」にありもしない欲望を喚起させ、よくわからない商品を作り出して、他人に売りつけるというサイクルを、無限に続けねばならないことだ。そのためには、いつまで経っても、我々はクソみたいに働き続けねばならず、ついにはそれこそが自己目的になってしまう。そんな人生しか、送れないことだ。
 ケインズは百年前、人類はそのうち一日三時間働いただけで、暮らしていけるようになろうと予言したが、あの神のようにかしこいケインズも、それだけは当てることができなかったな。
 

 
名古屋駅近くのミニシアターへドキュメンタリー映画を観にいってきた。シネマスコーレへは 12.2 に初めていってきたばかり。

高山本線那加駅10:56発、岐阜で乗り換え名古屋11:28着。上は名古屋駅でよく待ち合わせ場所に使われる金時計。クリスマスの飾り付けがしてある。
 名古屋駅で食事しようと「名古屋うまいもん通り」を廻(めぐ)ってみたが、お昼時が近いので、「広小路口」のはどの店も行列ができている。ので、迷宮のような細い路地を通って「名古屋駅麺通り」の一軒、「喜多方らーめん 蔵まち」へふらりと入る。テキトーに注文、15分ほどで品が出てきた。店の中は大混雑、さっさと10分で食う。味? まあまあ、量は少な目で、わたしにはよかった。

王道つけ麺950円。
映画まではまだ少し時間があるので、エスカ地下街や地上の太閤通口付近をふらふら歩く。


シネマスコーレの入っているビル、太閤通口から見えるくらいすぐ。あたりは外国人も多く歩いている。アジア系、中東系、などなど。
 シネマスコーレでの整理番号は18番目で、わたしは最後から2人目だったと思う。一般1800円。
 映画は『手に魂を込め、歩いてみれば(Put Your Soul on Your Hand and Walk)』(2025)で、監督はイラン人女性のセピデ・ファルシ。113分。藤原帰一先生が「映画で見つめる世界のいま」のコーナーで、11.28 に紹介しておられて知った。映画をかんたんにいうと、「ガザの若きフォト・ジャーナリスト、ファトマ・ハッスーナさんとの一年にわたるビデオ通話を記録したドキュメンタリー映画」と以前に説明したとおり。
 映像を観ながら、言葉が、感情がまったく浮かんでこない。ビデオ通話の画面のファトマさんの笑顔をただひたすら、身体をこわばらせながら観続けていた。スマホによる安定しないインターネット通話、背後のノイズはイスラエル軍の航空機やドローンの音だったりで、ときおり、爆撃が近くに着弾して轟音と振動により会話が中断されたりする。会話では、ファトマさんの実感が述べられ、親族や友人の死が報告され、状況はどんどん悪化していって、「集中できない」と表情が曇ったりもするが、それでもファトマさんは笑顔に戻る。あまりにも死に近すぎるのか。
 ファトマさんは、希望は悪だったか、罪だったか、罠だったか、なにかそういうことをいっていた。希望があるから、苦しむと、いいたかったのか。監督は、同意はできないが、気持ちはわかるといっていた。
 また、ファトマさんは笑っていっていた、私たちのいま過ごしているのはこの上ない simple life だ、そんなものまで、彼らは奪おうとする、と。
 ビデオ通話の合間には、ガザの状況を伝えるアメリカ、フランス、カタールの放送局のニュース映像が引用され、また、ファトマさん自身の撮影した、地獄のようなガザの多くの画像が挟まれる。
 結局、わたしは何もいうことがない。最後、ファトマさんとその家族は、イスラエル軍空爆で全員が殺害されたという文章が映し出され、映画は終わる。わたしは、予想に反して、全篇、ほぼ一滴の涙も、流すことはなかった(少しだけうるっとした)。ファトマさんの笑顔をひたすら身を固くして観ていたという、感覚だけが残ったような気がする。
 映画館から出て歩いていて、ふわふわと不思議な感覚だった。離人症的? 外は時雨れていた。
 帰りの電車で、少し人心地がついたように思われる。