落合陽一『半歩先を読む思考法』

晴。
 
才能というのはじつにありふれている。誰もが才能を求めてしまう。いや、僕も才能は好きだけれどね。凡庸こそがむずかしい時代だ。中庸とは凡庸なものである。
 例えば、澁澤龍彦の文体って、まことにナイーブで凡庸だろ? かしこい人は、かんたんにバカにできる。でも、あれがむずかしいんだ。よい土台というのは、そういうものである。村上春樹も、そんなのだっていってもいいかな。
 
スーパー。野菜、各種農産物、乳製品など、高くなって驚いてしまう。インフレを実感するな。
 
 
昼。
寝ころがってうだうだしたのち、図書館。二日間延滞した。李琴峰さんの小説『星月夜』を借りる。エッセイ集では、温又柔さんの『私のものではない国で』、またテキトーに小野正嗣『浦からマグノリアの庭へ』とか、落合陽一『半歩先を読む思考法』(ビジネス書みたいな題だね、いや、ビジネス書なのか)とか、借りる。それから閉架書で、林達夫座談集『世界は舞台』(山口昌男編)、この本をもっていないのは確かで、さて、読んだことあるのか知ら。記憶にない。
 
肉屋へ寄る。
 
図書館から借りてきた、落合陽一『半歩先を読む思考法』(2021)読了。

落合のいう「デジタルネイチャー」、従来いう自然とデジタルが融合した、広義の「自然」の成立というのは認識として正しい。それくらい、我々の生は既にデジタルに侵食されている。
 わたしが実感するのは、その過程で、従来いわれてきた(狭義の)自然への我々の感受性が、消滅しつつあるということだ。強い言い方でいうなら、我々は(狭義の)自然をますます感じることができなくなり、その中で、デジタルの「自然=環境」への感受性だけが残る。それが現代であり、その趨勢は将来さらに進んでいくだろう、とわたしは予測する。そして、若い世代の多くは、それで何の問題もない、と考えるのではないか。我々には「人工物である自然」しか、必要ない、と。
 狭義の「自然」への感受性が消滅していく中、最後の(狭義の)「自然」はおそらく我々の肉体になる。『攻殻機動隊』という物語になると、その肉体(脳を含む)もすべて機械化する世界が描かれる。恐らく、かかる「義体化」した「人間」は、(感情を含む)心(「ゴースト」と呼ばれる)の様態が、いまの我々と随分変わってしまうことになるだろう。我々の心は、我々がふだん意識している以上に、身体(肉体性)と不可分だからである。 
 
夜。
iPad miniポリーニショパンポロネーズ第四番、第五番、NML)を聴く。