落合勝人『林達夫 編集の精神』 / 林達夫座談集『世界は舞台』

晴。
 
側溝に落ちた木蓮の落ち葉を片付ける。
車を洗う。
少し体を動かしただけで温かくなり、暖房を切る。いい天気だ。
 
金柑の実を捥いで食う。
庭の秋明菊の咲いたあとが、結実して綿毛のようになっている。

紅いのはセンリョウ(千両)の実。
 
 
昼飯を食いながら NHK+ で「キャッチ!世界のトップニュース」を見ていて、月一で映画のコーナーを担当しておられる、国際政治学者の藤原帰一さんが、一年の総括を求められて、ウクライナ戦争などで「戦闘が長期化するということは、それだけ人命が失われ続けているということで、それがつらい」とちらっと仰っていたが、まことに共感する。今日のニュースでも、パレスチナ紛争はさらにレバノン、イエメン、イランに拡大し、アメリカも直接(報復)攻撃に参加し始めた。わたしはせいぜいニュースを見るくらいで、よく知らないし、どうしようもない。
 
散髪してすっきり。テレビのワイドショーの音声で、名古屋の交通事故と殺人事件について詳しくなった。なんか、元大阪府警の警部(?)とか、新潟のどこかの大学の犯罪心理学の先生とか、いろいろしゃべっていた。
 
国連WFP(世界食糧計画)に少額寄付する。
 
 
図書館から借りてきた、落合勝人『林達夫 編集の精神』(2021)読了。おもしろい本だった。感想は以前書いたのに付け加えることはない。本書を読んではっきりしたのは、(他人にはどうでもいいことながら)わたしが知識人でも「書物の人」でもないこと、また、同じことであるが、仮に読書家であるとしても、大したそれではない、ということ、それは既に書いた。まあ、大したことないにせよ、これからも読んでいくのは、続けるであろうが。
 本書の、「知識人にして編集者」林達夫関東大震災と、太平洋戦争の二つの「崩壊」から読み解くというのは、確かに独創的であるように思う。それに(ムリに)関連づけていえば、現代は書物の大「崩壊」時代、言葉のホワイトノイズ化の時代であると、わたしがかねてから感じ続けていることにまちがいはない。本が読まれなくなったといわれながら、大洪水のように大量の書物、言葉が流され押し寄せてくる時代であるとも、わたしは認識している。著者は敏腕編集者ということだが、現代の編集者というのは、いったい何を考えているのだと、常々感じている。

この「精神の土台」の根底からの崩壊時代に、ものを書くという行為は何なのであるか。底が浅いか、古くさいか、の二択になっているように思える。もちろん、自分を除外していっているわけではない。
 
林達夫座談集を読み始める。
 
夜。
図書館から借りてきた、林達夫座談集『世界は舞台』(山口昌男編、1986)読了。特にいいたいことはないが、山内得立(とくりゅう)の『ロゴスとレンマ』(1974)を林達夫が高く評価していたというのは意外だった。わたしも、中沢さんの『レンマ学』から、『ロゴスとレンマ』はそのうち必ず読まねばならないと思っているが、オンデマンド版で 9,900円もするんだよねえ。まだ、現役で売っているのだからよいといわれるかも知れないが、それにしても高価だし、近くの図書館にもないし。しかし、こういう本ほど図書館にあって欲しいものなのになあ。 
 
ラブレー『第一之書 ガルガンチュワ物語』(邦訳文庫版1973)読了。渡辺一夫訳。