山下裕二『商業美術家の逆襲』

日曜日。曇。

【第148回】性暴力を描く「#Me Too」時代の小説を読む|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
斎藤美奈子らしい論説。「認識しているか否かの違いだけで、セクハラや性暴力はどこにでも日常的に存在する。」これは本当にそうだな。自分に男性の根源的な暴力性が存在するのはまちがいないように思える。これはわたしには人間の動物性ゆえのものであるとも思われるが、もしそうであるすると、我々は「本能」を正義によって抑圧せざるを得ないということだ。これは必須のことになっていくだろうし、そうあるべきだな。しかし、男女の関係がここまでむずかしい問題を孕んでいるとはわたしは若い頃ちっとも認識していなかったし、頭が古かったといわざるを得ない。時代は変わるのだ。

しかし、これと比べると、ってわけでもないが、一緒にサイトに掲載されている蓮實重彦文章はなんだ。やっぱり蓮實、だいぶ衰えたな。


人間ってどこへ行くんだろうねー。ネットだけで世間と接している狭い世界の人間=わたしは、不思議な気分になる。皆んな、何を考えて生きているんだろう。石牟礼さんは生きることそのものに無理があると仰っていたけれど、わたしもそんな感じがする。一切皆苦。人間は幻想の中で生きていて、それは苦痛なのだ。やはり、自然というリアルと切れてしまった我々は苦しいが、そのような自然を感受して生きるという生き方は、もはや古くさくて凡庸に感じられ、若い人たちの興味をあまり惹かない。若い人たちは、都会と人工性が好きなのだな。それはそれでわかる。人間は動物性を抑圧され、どこへ行くのだろう。「自己家畜化」という言葉すら、既にネガティブなコノテーションを持たずに使われ始めている。わたしには、それはディストピアにしか思えないが、管理され尽くしたディストピアの到来はこのままでは必至だ、というより既にある程度現実化しているといっていいだろう。

最大の快楽は何か。それは名利の心、名誉心、自己顕示欲、自己承認欲求が満たされることであろう。それは死のリアルすら超える恐ろしい幻想だ。我々はひたすらそれを目指す。その欲望を完全に破壊することは、本当にむずかしい。

真に凡庸な人間にあなどられようとも、見かけの凡庸さを恐れてはならない。もののわかった人間の表現は、理解できないか、凡庸であるか、どうしてもそういったことになる。もちろん、理解できなかったり、凡庸であればよいということでは全然ないが。沈むのだ。

ハイドンのピアノ・ソナタ第五十三番 バックハウスの美しい音! バックハウスの弾くハイドン す・ば・ら・し・い。胸のすくような演奏。

昼から米屋。柳ヶ瀬の老舗肉屋。


山下裕二『商業美術家の逆襲』読了。承前。やー、おもしろかったわ。わたしはどちらかというと(恥ずかしいことに)美術のアカデミズムの「権威主義」に親和的な眼をもっていると思うが、そのような「権威主義」が崩れるところの快感! 山下さんが強調しているけれど、しっかりと「自分の眼」で観るという楽しみが大切だ。だから、敢ていうと、自分の眼でいいと思えば、「権威主義」的な作品だっていいわけである。本書に「値段を意識してみる」という言葉があるが、これは決して悪いことではない。美術展にいったら、仮に自分でひとつ買うならどれにするか、と思って観るのはじつによいことだと思う。逆に、こんなつまらない作品に高値が付けられている、ということもあるわけで。本書に卓越した収集家としてキャバレー王・福富太郎という人が出てくるが、彼は決して金にあかせて美術品を買い漁ったわけではないとある。じつに興味深い人だ。わたしには見当もつかないが、いま、日本人で優れた美術収集家ってのは、誰なんだろうな。バブル経済の頃、大企業がゴッホを大金で買って、倉庫に放っておいたというエピソードがあるが、いかにも「美」というものに弱い現代の日本人を象徴していると思う。田舎者なんだ。て、ま、わたしのごときビンボな田舎者の、いうべきこっちゃないけれどね。恥ずかしいです。

白洲正子さんに小林秀雄が骨董の「値段をつけてみろ」というのがほんとに怖かったと、白洲さんは書いていたな。ま、とてもそういう世界は、わたしは知らないのだが。せいぜい、田舎に巡回してくる乏しい展覧会を、たまに観にいくくらいのわたしである。

正直なところ、わたしは若い頃にいい日本画をあまりたくさん見ていないのだよね。日本画の意欲的な展覧会もまだほとんどなかったし、美術館の常設展示もいいものが少なかった。そういう意味で、残念ながら日本画を観る眼は弱いと思っている。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十四番 K.491 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。
 
夕飯は「敬老の日」(の前祝い?)というよくわからない理由で、老舗肉屋で買ってきた飛騨牛のランプ・ステーキ。老母がうまく焼くようになったので、充分においしかった。サーロインのいいものは霜降りすぎて脂っぽく、わたしはこちらの方が肉の味がよくして好き。もちろん塩と胡椒で食うのですよ。まさに年に数回の、ささやかな贅沢。


夜。
「鎌倉殿の13人」はひどいことになってるな。

NHK+で本放送から30分遅れで、NHKスペシャル中流危機”を越えて 「第1回 企業依存を抜け出せるか」を観る。絶望的な話だった。この30年で日本社会の「中流階層」は崩壊した。そのわかりやすいデータとして挙げられていたのが年収の中央値で、その値は30年間で500万円から370万円へ、130万円減少している。日本社会はバブル崩壊後に、賃金は下がっても雇用を守る方向に舵を切った、と。その他、現状認識としては、企業の業績低下→賃金の削減→個人消費の低迷→モノが売れない→企業の業績低下、という負のスパイラルなど、おおよそ知った話だった。
 ただ、そこで出てきた「企業依存」という言葉、これはあまり見ないものだったと思う。つまり、これからは、雇用を守ることを企業に求めるな。人生設計を企業に任せるのではなく、個々人の能力アップと新しい成長分野(成長企業)への移行はひとりひとり、個人でやれ、企業に頼るな。で、セイフティネットは政府が張れ。ただし、成長企業がどこから湧いて出てくるかは知らない、能力の高い人に積極的にスキル投資し、イノベーションを起こしてもらおう、ってな話だった。おもしろいのは若い労働者へのアンケート結果で、彼らの半分がいまだ終身雇用を望んでいる。
 さて、これがどうなのか、わたしなんぞにわかるわけがない。

ちょっと思うのだが、日本の得意だった「モノづくり」というのが、IT化と経済のグローバル化で、大きく変わってしまったのだな。「モノづくり」の狭くてひどく深い(いわば職人芸の)世界が、浅く広くなってしまった感がある。日本企業は、そのトレンドに乗り切れなかった、のか。