伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

日曜日。曇。
 
中沢さんの若い頃の本を読み直してみようと思って、『ゲーテの耳』を読む。わたしが育ってきたバブル期の空気をいっぱいに吸い込んだエッセイ集で、刊行は1992年。現在との雰囲気のちがいには驚かされるものがある。軽やかで楽天的で、可能性の予感に満ちており、現在がいかに暗い時代かを痛感させられる。ここにあった可能性は、多くが顕在化せずに終わってしまったと思う。
 とにかくいま重要なのは、エンタメ、いわゆるコンテンツ産業だ。これは、わたしもまだ考え尽くしていない。じんとしたにぶい欲望と、ある種の鈍重。

(現在において貶下的な対象である)バブル期というのは、その前とも後とも異質な、特異な時代だったのかなと思う。わたしにとっては当たり前の時代すぎて、まだ相対化し切れていない。
 
スーパー。3℃かよ。寒い筈だ。曇っているのもな。
 
「哲学」ってのもいまの時代、重要だな。「哲学書」を読みつつ、一方で映画を観るというのが、時代のファッションのように感じる。いや、それはいまではないか。いまは、MVを視聴しつつ、アニメかな? はは、わたしなんぞにわかるわけがない。
 
快感と苦痛はリアルだ。それ以外は希薄化する。人工化とはそういうことだ。
 

 
NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウスNML)。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第四番 BWV1010 で、チェロは藤原真理NMLCD)。
 
夕方、霙降る。
 
図書館から借りてきた、伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』読了。エッセイのようにも小説のようにも見えるが、つまりは大長篇詩であろう。人生は一切皆苦であることを赤裸々に歌っていて、深いところからアノニムな感情が湧き上がってくる。特に最後の二篇、石牟礼さん(とはここでは書いていないが)との対話を詩化したものと、家族で巨樹に出会う話が心に沁みた。最初から最後まで死の、つまりは生の苦しみを題材に歌い上げているが、だからこそ生の肯定であろうかとも思う。まさに一切皆苦、それが生きることだと。敢ていえば、その認識にこそ笑いもまた成立するのだ。 
大江健三郎自選短篇』の続き。
 
夜。
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」を観ている。大河は「真田丸」以来で、もちろん三谷さんだから。ちょっとおもしろくなってきたのだが、このあたりの歴史をあまりよく知らないので、中公文庫の「日本の歴史」シリーズの『鎌倉幕府』の巻を取り出してきた。また随分と古いものを、と思われるかも知れない。この巻を書いているのは石井進さんで、ビッグネームだが、まだ若い頃の執筆なのかな? よく知らない。
 
You Tube の公式チャンネルで、『銀魂』四話分観てた笑。