山内志朗『中世哲学入門』

曇。
朝四時台に起きる。
 
『中世哲学入門』の続き。承前。第四章、第五章、第六章を読む。ここからドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の話となる。ドゥルーズが『差異と反復』の中で華々しく復活(?)させた概念ということで、注目されるし、キリスト教神学そのものにおいても重要な議論だというのだが…、いやもう、ここから途端に(あまりにも)むずかしくなる。とにかく、聞き慣れない、それも微妙な意味をもつ新しい概念で満ちているのだ。アリストテレスは当然のことながら、さらにイスラーム哲学(井筒俊彦!)が入ってくる。何が何だかわからない。確かにわたしは飛び抜けて頭がよいというわけではないが、ここまでむずかしいとは。
 でもまあ、優秀勤勉な当の学者先生が、ちっともわからなかった、いまでもともするとわからなくなるというくらい、複雑で繊細な、しかも曖昧な(!)議論なのだ。しかし、何でキリスト教神学は、ここまでむずかしくなってしまったのか。それは、不可知なはずなのに、一方で「完全である」とか「正義である」とか「善である」とか、なぜか可知であることもある「神」というものを設定してしまったがゆえに、起きる混乱(?)であるように、わたしには何となく見えてしまう。「神」は誰でも知っているとされるのに、誰もじつはよく知らない。それを語ろうというそもそもの発端に、ムリがあるのだ。ここでいまわたしは「可知」「不可知」という言葉を使い、「神」に対し「属性」とか「述語」とか「部分」とかいう概念を使いたくなってしまったが、中世哲学・神学においては、こういう概念を安易に使うと、たちまち撃ち抜かれてしまう。慎重さと学識なしには、一歩も進めないのである。だから、説明が死ぬほど厄介になる。
 なお、こういう哲学(神学)論争、どうでもいいといえばどうでもいいのである。西洋中世の、ほんの一部の領域であるし、それに、こういうのはわたしにいわせると「超複雑なパズルを解いている」だけといえばそうだ。世界の実相からは、どんどん離れていってしまう議論のようにも思える(いや、時に真理が含まれているから、厄介なのだが)。インテリだけにまかせておけばよい、そんな気もする。しかし、一方で我々は、いまだって「世界の実相」(わたしはこれを特殊な意味で使っている)とはあまり関係のない「超複雑なパズルを解く」ことに、膨大な精力をかたむけ、その結果やたらと世界を複雑化してしまっている。余計な概念で頭をいっぱいにしている、それを「現実」と思っている点で、西洋中世と、そんなに変わらないのである。
 
例えば、「個性」などという空疎に近い概念である。この概念はあってもよいが、我々個人個人が「異なる」もので、その「異なる」ということそのものに「絶対的な価値」があるというような現在のコノテーションをもたせると、それはメリットが少ないばかりか、(特に若い人たちに対して)呪いの言葉となる。(「平凡な自分に、特別になにがあるというの?」)たぶんこのようなコノテーションはロマン派の「天才崇拝」からやってきて変質したものであろう。「個性」という言葉はかくして、生きるのをムダにややこしくし、人を生きづらくする。
 そもそも個人は錯綜する(欲望など)力の束である、にすぎない、といってもいい。ひとつに統合され明確な「目的」と「意志」をもった「個人」(individual は「不分割」の意味である)が存在するという西洋的テーゼは、わたしには一種のフィクションとしか思えない。
 
山内志朗『中世哲学入門』読了。めっちゃむずかしくて、わたしにどれだけ理解できたか疑問だが、それでも(それゆえに?)じつにおもしろかった。退屈で読者のレヴェルを低く見積もった新書本ばかりが横行するいま、ひさしぶりに本格的、本物の思考が堪能できる新書である。昔、精神の冒険、なんて言い方があったけれど、まさにそれだ。若い挑戦的な人は、読んで興奮できるのではないか。おすすめというにはむずかしすぎるけれど、それでもおすすめといいたい。

著者の本はもっと読みたいな。図書館で探してみよう。哲学史はじつは哲学そのものなのだ。
 ちょっとしたこと。中世哲学では「概念」(concept)の意味で「志向」(intentio)という言葉が使われており、「第一志向」と「第二志向」の区別が本書で大きな役割をしているくらいだが、そのスコラ哲学の用語に対し、「観念」(idea)をプラトンイデアとは別の意味で使ったのがデカルトで、それがすっきりとしていて巨大な影響を及ぼしたというあっさりした記述が本書にあるが、目の覚めるような指摘だよね、これは。
 
しかし、プラトンアリストテレスは、現代に至るすべての元凶だ(中世哲学・神学においては後者だが)。つくづくそう思う。そこからの流れは、よきにつけ悪しきにつけ、世界をめんどうで厄介なものにしてしまった。それは東洋を飲み込み、全地球を覆おうとしている。(って、話が大きすぎるが。)
 

 
昼寝。
ガソリンスタンド。
 
初物ミニトマト

 
 
リービ英雄『日本語の勝利/アイデンティティーズ』を読み始める。ひさしぶりに講談社文芸文庫を買った。初期エッセイ集。ほぼ新刊であり、それは現在のアイデンティティ・ポリティクスの隆盛に関係しているものであろう。リービ英雄さんはたぶん初めて読むが、こんな作家がいたとは、という感じである。マイノリティ文学はいま流行っているが、それとは別に、本書の視点はわたしには何ともなつかしいというか、古典的でマジメな感じを受けるものだ。なにせ、文学の「開眼」は三島由紀夫であり、三島・大江以降は日本文学に傑作はほとんどなく、わずかに中上健次島田雅彦その他、数人のみが注目すべき書き手であるにすぎない、というのであるから。あとは、李良枝、とか。これらのエッセイが書かれたのはおおよそバブル崩壊の頃であるが、かつてのわたしなら、著者に諸手を上げて賛成したかも知れない。わたしはといえば焦土的荒廃に「屈服」(?)して、村上春樹やアニメなど、現代日本の想像力の驚くべき「下らなさ」「幼稚さ」(それらはいまや同時代的に世界中で熱心に受容されている)を無視することを已めざるを得なかったわけだが。こんなリービ英雄さん、現在の日本文学をどう捉えるのだろう。やっぱり、フェミニズム文学や、多和田葉子さんあたりを評価するのだろうか。続けて読む。おもしろいことに、リービ英雄さんの文学的感想には、アメリカを追い越すかとも見えた、日本のかつての「経済の隆盛」という要因が抜きがたく存在しているのだな。経済的に没落していった現在の日本における「文学」が、リービさんの目にどう映っているか、ちょっと気になるところである。それにしても、文学と経済、とは。
 

 
夜。
涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)第24話(ほぼ最終話、あとはその気になったら観るつもり)まで観る。かつての覇権アニメであり、古典的超有名作であるがゆえに最後まで観てみたが、論外の「エンドレスエイト」は措いても、観るのがきつかった。まあ、SFなのかな、主役のどうしようもなく自分勝手な涼宮ハルヒという女子の考えることそのままに、世界が変容してしまい、それに無自覚なハルヒの言動に周りがふりまわされるという、そんな設定とでもいうか。わがままなだけの涼宮ハルヒに個人的に何も共感できず、うっとうしいだけなのがつらかった。周りのキャラも、わたしにはひとりとして魅力が感じられなかった。とにかく古典だからというだけで頑張って観たといっていい。評価サイトを見るとやはりほとんどが高評価、まあそうなんだろうなと思う。京都アニメーションの代表作のひとつとされている。