種村季弘対談集『天使と怪物』 / オーウェル評論集I『象を撃つ』

深夜起床。

Linux Mint を 20.2 Uma にアップグレードする。

心の土台が疎かになっている。
朝まで二度寝

ごろごろぼーっと。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第二番 BWV826、第三番 BWV827 で、チェンバロスコット・ロスNMLCD)。

池田亮司『Dataplex』を聴く。

 
珈琲工房ひぐち北一色店。種村季弘対談集『天使と怪物』の続き。

図書館から借りてきた、種村季弘対談集『天使と怪物』読了。高橋康也瀧口修造手塚治虫河合隼雄、ルネ・ホッケ他他、すごいメンバーとの対談だな。その中でもいちばん痛快だったのが、山口昌男とのそれ。すれっからしになった我々は、(貧しいにもかかわらず)ちょっとやそっとのペダントリーには驚かないのだが、これには心底驚嘆した。何だかわけのわからない固有名詞がめちゃめちゃに乱舞していて、阿吽の呼吸でものすごいスピードで話が進んでいく。いや、ひさしぶりにペダンティズムというものを堪能しましたよ。浅田さんなんかはこういうのに憧れていたと思うのだけれど、残念ながらいまではつまらない官僚的言語に堕している。時代が悪いな。とにかく、山口昌男のいかがわしさは最高ですよ。いまは、文化の明度があっけらかんと明るくなってしまっていて、ラビリントスに繋がっていくような底暗さがどこを探してもない。例外は精神的病いだけになっている。

鬱病的固定化の時代で、螺旋的ラビリントス的旋回がない、ともいうか。旋回がものすごくむずかしくなっている。


日没前、散歩。


カラスにつつかれたスイカ







ジャンボタニシスクミリンゴガイ)。

蒸し暑くてなかなか散歩できない。

夜。
図書館から借りてきた、オーウェル評論集I『象を撃つ』読了。これで平凡社ライブラリーオーウェル評論集全四冊を読み終えた。これによってオーウェルはわたしには特別な作家になった。前にも何度も書いたが、オーウェルはわたしには「まとも」であるということを思い起こさせる。そして、現代にあって「まとも」とは何かということを考えざるを得ない。その試みは例えばここで行ったが、これが確定的というわけではない。そこでは「言葉によって沈黙する」ことを考えたが、それよりもまあ、現代における管理社会化についてでも考えた方がよいのかも知れない。けれどもその管理社会への現在的進行は既に少なからぬ人たちによって指摘されているし、またそれは止めることができないこともわかり始めている。つまり、管理社会(ディストピア)化は、我々の密かに望んでいることだし、また必要なこととされているのだ。かつてはそのことについて考えたが、何かむなしくなってそのままになっている。オーウェルだったら、諦めないかも知れないが。

パンデミック時代になって、我々が管理社会を望んでいることがますます明瞭になった。国家に対抗していくことがひどくむずかしい時代になっているし、それを止めることはできないと主張するのが学者たちの主流であるような気がしている。これはパンデミックの前からそうであったが、パンデミックは事態を加速させた。

本書でオーウェルは、政治的自由のないところに「内心の自由」は存在しないことを指摘しているが、いまの事態は逆であるように思える。つまり、我々に「内心の自由」がないがゆえに、政治的自由がなくなっている、と。我々の心は、ロジックで雁字搦めになっている、ということである。