イメージの商品化と深さの陳腐化

曇。

種村季弘対談集『天使と怪物』を読み始める。高橋康也さんとのアリスについての対談がすばらしい。つっても、僕はアリスはそんなに好きではないのだが。アリスはやっぱり表層ではなくて、フラット、二次元的だが深層だと思う。というか、キャロルが深層的というべきなのかな。キャロルは表の顔はまともな紳士で、裏がいかがわしかったのだから。本書にもアリスのイメージがいろいろ収録されているが、これははっきりと深層的だよね。ナンセンスは意味(シニフィエ)がないがゆえに、深層を誘発するのだと思う。
 高度資本主義が発展して以降、このように深さをもっていたイメージがことごとく商品化され、表面に引き摺り出されてきた。浅田さんの言っていた「イメージは凡庸である」というのは、わたしはそのことだと思っている。でも、それで深さそれ自体がなくなってしまうわけではないので、我々における深さとは何だろうというのがわたしの気になるところだ。たぶん表層だけでなく、深さも非常に陳腐化・凡庸化しているのだと思う。自分を顧みても、そう感じる(まあ、たんにわたし個人が凡庸ということはあるが)。どれだけ深刻なイメージを積み重ねても、幼稚さに収斂するしかない。アリスも、現在においては陳腐というしかない。

でも、こんなのはそう独創的な考えでもないよね。深層の陳腐化なんて、とっくに指摘されていることだと思う。ただそのことが、自分においてどれほど切実かというだけのことだ。ネットを見ていると、自分のある程度の深さに苦しめられ、それを頑張って「外化」(作品化・コンテンツ化)しても、陳腐から出ないということがありふれている。でも、知識がなくてその独創性のなさに気づくこともないから、世代が替わるごとに作品群がごそっと入れ替わることになる。その繰り返し。そして、それから逃れることができない。これこそがポストモダンの呪いであり、ポストモダンを超えることができない所以なのだ。このポストモダンというのは、一時期の流行だったいわゆるポストモダニズムのことではない。

昼寝。

夕方、少し散歩。平凡写真。




たぶんサツマイモの畑。




無意識を涵養する。


webちくまで見かけた。

こりゃおもしろそうだ。山岡鉄舟は以前から気になっていた。