こともなし

時雨れる。
 
中沢さんの『精神の考古学』落掌。読む前からワクワクする。それにしても、L'archeologie de l'esprit とは、壮大な名前をつけたものだ。命名は、亡き吉本さんによる。さて、この本が世界史的な転換点のひとつになるのか、それとも極東におけるきわめて孤独な試みとして忘れられるのか、どうなるんだろうな。それはひとえに我々にかかっている。
 
スーパー。毎月15日の謝恩券、今日が最後なのでもらってきた。
帰りに村の(かつての)八百屋の建物にジョウビタキがいるのを見かける。いま、里に降りてくる時期(?)かな?よく見かける。人なつこい鳥である。
 
昼。外は暗い。雨。
インスタントコーヒーを飲んでぼーっとする。
 
すべてを同時に表現することはできない。あるものに光を当てれば、別のものは闇に沈む。
 
『精神の考古学』を読み始める。一時間読み、三十分休憩したのち、また一時間読む。第三部まで読み終えた。中身が雑誌連載時とどれだけちがっているか、よく思い出せないが、(ここまでは)基本的に同じであるように思える。
 雑誌連載時よりはわたしの程度が進んでいるので、少し深く理解できているようだ。
 
雑誌の連載を読んでいたとき、坂本さんへの最後の聞き書きが同時に連載されていたが、あの豊かな坂本さんの精神としてすら、現在の先端文化のあまりの貧しさに索然とせざるを得なかったのを思い出す。それと同じことだが、いま休憩時にたまたまある種のふつーかつあたりまえのインターネットを見てしまって、顔を汚い濡れ雑巾で撫でられるようなそのクソみたいな貧しさに、反吐が出るような気分を味わう。ほんと、わたしなんかはまだまだ脱構築的解体力が大したことないなと痛感する。
 
夜。
iPad miniヘンデル組曲第五番を聴く(マレイ・ペライアYouTube)。ブラームスの三つの間奏曲 op.117 を聴く(エレーヌ・グリモーNML)。
 
iPad mini で「クープランの墓」を聴く(指揮は小澤征爾NML)。
 
公開セミナー「人文学の死―ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」(2024.2.13) - YouTube
冒頭の岡真理先生の講義を聴いた(50分間くらい)。わたしもまた岡先生とはちがう文脈でだが「人文学の死」という言葉を何度もこのブログで使っていたので、仰りたいことがよくわかった。イスラエルによるガザのジェノサイドの根源には、ヨーロッパの植民地主義と過去の「反ユダヤ主義という差別意識」がある、と言い切っておられる。そしてそのジェノサイドを世界が隠蔽している、無視しているということこそ、「人文学(ヒューマニティ)の死」であると。つまり、我々に置き換えれば、日本もまた植民地主義を選択していたのであり、そのことの隠蔽がガザのジェノサイドの隠蔽につながっている、と。これはまったくそのとおりである、が、わたしなどは、どうしたらよいのであろうか。岡先生の糾弾は、わたしにはたいへんにきびしい。例えばこの場でわたしが日本の過去の植民地主義を糾弾することは極めて容易いが、そんなのはアリバイ作りに過ぎないようにも思われる。