こともなし

日曜日。曇。
夢。友人のところに泊めてもらい、東京を歩くが、どこをどう歩いているのかさっぱりわからない。友人の部屋に戻ろうとするも、電車の乗り換えもよくわからない。連絡をしようにも、携帯もスマホももっていない。ほとほと困り果てる。ウロウロとビルの中の通路を歩く。
午前二時頃、いったん目覚める。二度寝、六時起床。
 
 
解説『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』|ちくま文庫|斎藤 美奈子|webちくま
高いレヴェルの、おもしろい解説だな。斎藤美奈子の評論はこれを見てもいつも「人工世界」=文明の内側で行われており(現在のフェミニズムというのも、多くはまったくそれだ)、完全に非・自然で一貫している。小説の彼女の読解(斎藤はよく小説が読める)なども、「自然」への感性は、限りなく低い。「自然」へのリスペクト(?)がないのだ。文明内部のクリティシズムとしては高く評価できる。けれど、この世界の先はユートピアに見えるが、じつは「人工楽園」というディストピア(すべて都市化された世界)でないとすれば、行き詰まっている。その意味で、大いに学ぶべき(フェミニズムは確かに学ぶべきだ)と共に、克服すべき対象であるだろう。
 しかし、世界の人工化が止まることは、現実問題としてはたぶんあり得ない。わたしが敗北することは正義によって確定している。正義は反自然であり(これは正義=反エコロジーという意味ではない)、正義は全世界を覆うから。
 都市化というのは我々の感性の問題でもある。たとえ田舎に住んでいても、精神が都市化されていて自然が見えていないというのはふつうだ。ゆえに、田舎の若者はどうしようもなく都市を目指す。その意味で、日本には既に「自然」がほとんど残っていないといっていいだろう。自然から切断された文化。
 しかし、こういう語り方ではダメなんだ。自然というと、どうしても海とか山とかいうことになるからな。わたしのいうのは、それよりもむしろ野生の動物(もちろん昆虫も含む)であり、植物なのだ。我々も動物の筈なのだが、否応なく家畜化している。それが都市化ということだ。文化全体の都市化。自然とかいうやつは直ちにナイーブということになる。そして、我々はもはや、自分が動物であることを嫌がるようになってきているのだ。
(あまりうまく書けなかったので、フォントを小さくしておく。)

 
逆にいえば、わたしは人工世界のことはよくわかっていないのかも知れないな。いや、わたしが知っていることなど、いずれにせよ極狭い。
 
東さんは「フランス現代思想」の文脈で『動物化するポストモダン』といったが、これはミスリードかも知れない。人間そのものは動物であるにもかかわらず、現代人はみずからを動物から引き離そうとしている。それがわたしのいう「反自然」だ。
 

 
スーパー。何かガランとしていた。
 
昼寝二時間。九時間寝たというのにな。
 
どうしようもなく伸びた草を刈るのに、電動草刈り機を使ってみる。最初老父が組み立てておいたのではハンドルの位置が悪く、中腰でしかもハンドルを持ち上げるような仕方になってしまい、30分くらいで腕が痛くなる。筋トレをやったみたいなものだ。まあそこそこやっつけたが、今度やるときはハンドルの位置を直してからにしよう。そうすればだいぶラクにできる筈だ。
 
夜。
オウィディウスの『変身物語1』を読み始める。西洋古典叢書版。大昔、岩波文庫で読んだもの。新訳は読みやすい。
 ラテン文学を読むようになったのは、ひとつは若い頃岩波文庫好きであったからだが、澁澤龍彦からの影響も大きいだろう。学生のときラテン語の授業を取ってはいたものの、もちろん翻訳でしか読むことはできなかった。『ガリア戦記』くらい、頑張って原文で読んでおけばよかったのに、後の祭りである。ユイスマンスの『さかしま』に言及されているラテン文学をひとつずつ読んでいく澁澤が、随分と格好よく思われたものだ。シドニウス・アポリナリスの名前も澁澤晩年のエッセイで知ったが、それから30年経っていまだに読んだことがない。