こともなし

日曜日。雨。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはエミール・ギレリス、指揮はジョージ・セルクリーヴランド管弦楽団NMLCD)。■リゲティの練習曲集第三巻で、ピアノはキャシー・クリエ(NMLCD)。

涼しい。和菓子餅信へ、マロン大福を買いに行く。

『鬼滅の刃』を読む~この残酷な世界の中で誰もが鬼にならずにすむように | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
たまたま読んだのだけれど、なかなかおもしろかった。

これらの作品は、人間たちが虚しくあっけなく死んでいくのは自然の法則のように当然なことである――というメッセージを、読者に対してごくごく当たり前の事実であると伝えているかのようです。根本的な諦念があるかのようです。たとえば『鬼滅の刃』は努力の果ての残酷な死を。『呪術廻戦』は悪意を煮詰めた嘲弄的な死を。『チェンソーマン』はチェーンスモーカーが煙草を吸うような軽すぎる死を――そのように、それぞれの作品によって死の意味付けは異なりますけれども、圧倒的にキャラクターたちがあっけなく死に過ぎている、という印象はやはり受けます。

わたしはこれらの作品を知らないけれど、「圧倒的にキャラクターたちがあっけなく死に過ぎている」というのはわかる気がする。『進撃の巨人』でも、たくさんの人が虫ケラのように死んでいったな。

私は以前、ある若い人から、人生なんてクソゲーで、残機一機でリプレイ不可、ガチャに失敗(親ガチャとか学校ガチャとか)してもリセマラ禁止――という表現で自分の人生を語るのを聞いたことがありますが、思えば、『鬼滅の刃』の上弦の鬼たちとの戦いは、おおむねそんな感じがします。ステージごとに攻略方法が違うレイドバトルだけど、悉くクソゲーである、というか。もしかしたらそれは、やはり、クソゲーとしての現代というリアルを写し取っているのかもしれません。

この感覚も興味深い。子供の頃から人生というものを俯瞰しすぎているというか、あらかじめ(一面的に)わかりすぎているというか。何か、人生がベストルートでゲームクリアされるべきものだ、とでもいうような感覚。そんなこと、ある意味ではどうだっていいのに。そもそも、人生でゲームクリアとは何だろう。死ぬことか?

ファジル・サイ(1970-)のヴァイオリン・ソナタ第一番 op.7 で、ヴァイオリンはフリーデマン・アイヒホルン、ピアノはファジル・サイNML)。サイって自分と近い世代なのだな。自由な音楽家だ。サイは辻井君をよく知っているのだよね。

 
■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはテディ・パパヴラミ(NML)。骨太のヴァイオリンだな。■ペルトの「フラトレス」、「スンマ」で、指揮はルノー・カピュソン、ローザンヌ室内管弦楽団NML)。
Arvo Part: Tabula Rasa

Arvo Part: Tabula Rasa

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妹一家来訪。ブロッコリーの苗とかジャガイモとか座布団とかもっていく。マロン大福でお茶。
下の甥っ子の勉強を見る。高校数学を二時間ほど。いやあ、高校生、大変だなあ。自分が高校生のとき、どうしていたっけ。もう忘れちゃったや。

夜。
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