『エリアーデ著作集第十三巻 宗教学と芸術』 / 『吉本隆明全集 16 1977-1979』

休日(海の日)。曇。
昨晩は吉本隆明全集を読んで寝た。シーモヌ・ヴェイユに関する小文(おそらく講演が元になっているのだろう)に感銘を受けた。吉本さんはのちに『甦るヴェイユ』という著作をまとめておられるが、もう中身は覚えていないので読み直してみようかなと思ったり。吉本さんは自分で納得したことしか信じないのでそれに慣れないと読みにくいが(だから浅田さんは吉本の言葉の体系を受け入れるつもりはないと書いた筈である)、ツボにはまるとあざやかな理解だなと思わされることが度々あって、そこが吉本さんを読む楽しみのひとつかなと思う。それから、また別の文章で「怠惰で遊戯的な気分」というのが生活には大事なのだというのも、吉本さんらしい。我々庶民というのは、そういういわばだらしがないのが本当だというのは、よくわかる話ではないか。「疫病神」(バタイユがそう言っているらしい)のような聖女・ヴェイユと庶民の両方を射程に入れていたのが吉本さんということになろうか。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NML)。僕はこの曲が好きだ。これを初めて聴いた同時代の聴衆がいかに驚いたか、想像すると微笑に誘われる。コヴァセヴィチの演奏は、そのような空想にふさわしい熱いものだ。これがベートーヴェンの出発点なのですよ。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ作品2

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ作品2

エリアーデを読んでいるのだが、なかなか進まない。これまで著作集を10冊以上読んできたのだが、しっかりと読めていなかったのが明らかである。別に文章が難解とか、そういうことはないけれども、じつはエリアーデの扱っている領域は無意識なのであって、そこに至る通路として例えば神話が使われているのだ。しかし、いいかげんに読んでいるとエリアーデの目的が神話にあるように誤読してしまうのであり、それもその筈、エリアーデは「無意識」の語をほとんど使わないからである。わたしはこれは意図的であると思う。望まない論争を回避するためにであったのか、知らないが、いくらフロイトが無意識を「発見」したとはいえ、それは論争的な概念であってきたし、さていま欧米の学問では「無意識」はどうなっているのか。少なくとも日本では、もはや「無意識」を念頭に置いている知識人は極少であろう。事実としては意識は無意識の大海に浮かぶちっぽけな島以上のものではないわけだが。そして、日本のいまの時代におけるマンガ、アニメ、ゲームなどは、我々の無意識への通路である筈である。そこのところは、わたしは時代遅れでもうわからなくなってしまっているのであるが。ただ、我々の意識が徹底して合理化され、無意識からの声を聞き取ることを怠るほど、無意識からの反動は大きくなる道理である。そんなことも、いまでは忘れられようとしている。ああ、エリアーデから遠くまできてしまったわけで。

ちょっと現代日本人の無意識に関して書いておけば、例えば現在若い人たちが結婚しなくなっているということ。これは経済的な理由が挙げられるのがふつうであるが、わたしはこれは我々の無意識からも来ていることを確信している。というか、若い人たちは経済的な理由で結婚できなくなっているというよりも(経済的には結婚した方がお互い有利である)、無意識的になぜか結婚したくなくなっている方が大きいのではないか。特に男性。そして、いまや結婚しなくても、かつてあった周囲からの結婚しろというプレッシャーがきわめて弱くなった。それじゃあ、結婚する筈がないよとわたしなどは思う。むろん、すべてがそうだというつもりはないけれども。

図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集第十三巻 宗教学と芸術』読了。エリアーデ著作集全巻を読み終えた。もっとも、上に書いたとおりまったく不十分な読み方だったと思う。まあその程度の読解力しかなかったのは仕方がない。いまならもう少しマシに読める巻もあるのではないかと思うのだが。なお、翻訳のよくない巻がいくつかあって、それは残念だったが、もはやこれら全巻の新訳が出ることはないだろう。翻訳というのは、むずかしいものであるな。

 

図書館から借りてきた、『吉本隆明全集 16 1977-1979』読了。

吉本隆明全集: 1977‐1979 (第16巻)

吉本隆明全集: 1977‐1979 (第16巻)